平清盛と足利尊氏はかつては悪人のイメージが強かった。最近はどちらも復権して歴史の流れをつくった人物として高く評価されている。清盛の死後、平氏は西海へと敗走する。尊氏もまた西海に落ちたことがあった。
異なるのは、平家は西海に沈んだが、尊氏はみごと起死回生を果たし京を奪回したことだ。瀬戸内に点在する平家の史跡はいずれも哀れを誘うが、尊氏の足跡は栄光に彩られている。
尾道市東久保町に浄土寺がある。国指定重要文化財の山門の側面の板蟇股には「二ツ引両」の紋があり、足利氏にゆかりが深いことを示している。
浄土寺の境内に国指定重要文化財「浄土寺宝篋印塔」(左)と未指定の「石造五輪塔」(右)がある。それぞれが足利兄弟に関係するという。説明板を読んでみよう。
浄土寺宝篋印塔
花崗岩製 石造寺宝篋印塔 高さ一.九m
足利尊氏の墓と伝える
基礎・基壇の間に反花座を設け、基礎側面には大きくみごとな格狭間を作る
相輪も完備し、彫り、全体の均整ともに洗練され、南北朝時代における中国地方の宝篋印塔の代表作といわれる
石造五輪塔
足利尊氏の弟直義の供養塔と伝える石造五輪塔で、尊氏塔と同時期のものと考えられる
写真をもう一度見てみよう。両塔ともに保存状態の良い優品であり、傍らに松の木、背景には向島と絵になる文化財である。備後尾道のこの地になぜ足利兄弟が関係しているのか。
時は建武三年(1336)1月、鎌倉で建武政権に反抗挙兵した尊氏は京を制圧する。しかし、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の攻撃により、2月には京を放棄して西国に下っていく。その途中、ここ浄土寺に参詣し戦運の挽回を祈念したという。
同年3月、九州福岡で菊池勢を破り、勢力を回復して東上を開始した。その途中、再びここ浄土寺に立ち寄ったのが5月5日だったという。戦勝を祈願した尊氏が、湊川の戦いで楠木正成、新田義貞を破ったのが5月25日である。ここに天下の大勢は決し、尊氏は新政権を樹立することとなる。
1336年は、日本史で暗記すべき年代としては知名度が低いが、1185年や1600年と並ぶ重要な画期である。確かに政権の安定には時間がかかることになるが、新たな政治体制が始まったことは確かだ。
その重要な場面の主役、足利尊氏が尾道の浄土寺に二度も参詣している。尊氏が浄土寺の本尊、十一面観世音に祈願したのは、武士の武士による武士のための政治の実現という高邁な理想と、天下を我が手にという野望だったに違いない。