もういくつか寝るとお正月となる。お正月に初詣に行けばおみくじを引く。占いは大昔からあったが、現在のおみくじの原形は比叡山で始まったという。場所は横川(よかわ)の四季講堂である。ここに「おみくじ発祥之地」という碑がある。四季講堂は元三大師(がんざんだいし)堂ともいう。
常総市大輪町(おおわまち)の「正覚山蓮前院安楽寺」の参道は時代劇のロケにも使われる。大河ドラマ「武蔵」にも登場している。
安楽寺は延長七年(929)、菅原道真の遺子、下総守菅原三郎景行によって大生郷天満宮の別当寺として創建された。そういえば、九州の太宰府天満宮も神仏習合時代には「安楽寺」といった。
ここ安楽寺は現在では「元三大師(がんさんだいし)」として篤く信仰されている。元三大師とは、第18代天台座主良源(りょうげん)、慈恵大師(じえだいし)のことである。正月三日(永観三年、985年)に遷化されたので元三大師と呼ばれる。
安楽寺が元三大師に直接関係あるわけではない。江戸時代初期の慶安年間にに慈眼大師(じげんだいし)天海が上野寛永寺に元三大師を勧請し、さらに寛永寺の鬼門にあたる安楽寺を「江戸城鬼門除けの祈願寺」として同じく元三大師を勧請した。それゆえ、安楽寺は元三大師と呼ばれるようになった。
この安楽寺に「篠塚伊賀守重廣一族供養塔」と重廣の娘、伊賀局の歌碑がある。篠塚重広は新田義貞の配下にあって、新田四天王と呼ばれた猛将である。
興国三年(1342)、世田山(愛媛県西条市と今治市の境)での合戦で、足利方の細川頼春の猛攻で宮方は敗れるが、篠塚伊賀守だけは次のように一人気を吐いてみせたという。『太平記』巻二十二「大館左馬助討死事附篠塚勇力事」である。
紺絲(こんいと)の鎧(よろひ)に鍬形打(う)ちたる甲の緒(を)を縮(し)め、四尺三寸ありける太刀に、八尺餘(あまり)の金撮棒(かなさいぼう)脇に挿みて、大音揚(あ)げて申しけるは、
外(よそ)にては定(さだ)めて名をも聞(き)きつらん、今近づきて我をしれ、畠山庄司(せうじ)次郎重忠(しげただ)六代の孫(まご)、武蔵国に生(を)ひたちて、新田殿(につたどの)に一人当千と憑(たのま)れたりし篠塚伊賀守爰(こゝ)にあり、討ちて勲功(くんこう)に預れ
と呼りて、百騎(き)ばかり控へたる敵(てき)の中へ、些(ちつと)も擬議せず走(はし)りかゝる。
死地を脱した篠塚伊賀守は、瀬戸内海の魚島(愛媛県越智郡上島町)に逃れたという。この島の亀居八幡神社に国指定重要文化財の宝篋印塔があるが、これは伊賀守の墓と伝えられている。
篠塚伊賀守の生まれは、今の群馬県邑楽郡邑楽町大字篠塚とされる。本日話題としている安楽寺とは、どのような関係があるのか分からない。ここ茨城県には伊賀守の末裔が多く住んでいらっしゃるとのことなので、供養のため建立されたのであろう。
伊賀守には伊賀局(いがのつぼね)という娘がいた。後醍醐帝女院新待賢門院(阿野廉子あのれんし)に仕えた人である。彼女の説話が室町時代の説話集『吉野拾遺』に載っている。
伊賀局化物ニ遭フ事
新待賢門院に、伊賀のつぼねといふありけり。これは左中将義貞朝臣の侍に、篠塚伊賀守といへるが女になんありける。女院の御所は、皇居の西のかたにて、山につゞける所なりけり。去ぬる正平ひのとの亥のとしの春の比、化物あなりとて、人々さわぎ恐れ給へり。形をしかと見さだめたるものもあらず。行きあひけるものは、こゝちあしくなりにけり。内裏より御との居人あまた参らせ給ひて、蟇目(ひきめ)など射させければ、そのほどはしづまりにけり。水無月十日あまりの程に、いとあつき比なりければ、此のつぼね庭にいでゝ立ち給へるに、月のさしいでて、いとあかゝりければ、
すゞしさを まつ吹く風にわすられて 袂(たもと)にやどす夜半の月かげ
とたれ聞く人もあらじ、とひとりごち給へるに、松のこずゑのかたより、からびたる声して、「たゞよく心しづかなれば、すなはち身もすゞし」といふ、古き詩の下句をいふに、見あげ給へば、さながら鬼のかたちにて、翅(つばさ)のおひ出でたる、眼は月よりも光りわたるに、たけきものゝふの心もきえうせぬべきに、打ちわらい給うて、「誠にさにこそありけれ、さもあらばあれ、いかなるものにかあるらん。あやしくおぼゆるにこそ。名のりし給へ」ととはれて、「我は藤原の基任にこそ侍れ。女院の御為に命をさぶらひしに、せめてはなきあとをとはせ給はむことにこそあれ。それさへなく候へば、いとつみ深く、かゝる形になりて、くるしきことのいやまされば、うらみ奉らんとおもひて、此の春の比より、うしろの山に候へども、御前にはおそれて参らぬにこそあれ。此のよし啓して給はなん」とこたへければ…
さすがに伊賀守の娘である。化け物を前にしても気丈なことよ。「何奴、名をなのれ」と迫った。すると化け物は「私は女院様を命に代えてお守りした藤原基任(もととう)です。そこまでしたのに供養してくださらぬとは…トホホ。恨みがつのってこんな姿になりましたが、女院様の前には出られません。どうか私の思いを伝えていただけませんか」
伊賀局がこのことを女院に伝えると、女院は法華経で供養を行い、基任は成仏するのである。法華経の功徳を説くお話であった。
父の豪胆さを受け継いでいた伊賀局は、女院に仕えるだけに風雅を解する繊細さも併せ持っていた。夏の暑い夜に庭の前で「涼しくならないものかしらと待っていると、松の間を抜けて風が吹いて、すっかり暑さを忘れてしまったわ。それに着物の袖に月の光がさして、とてもさわやかな感じね」と詠んだのだ。
この歌が供養塔の隣にある歌碑に刻まれている。「正平ひのとの亥のとし」とは正平二年(1347)である。歌の舞台は吉野であろう。そこから遠く離れた関東に於いても南朝を偲ぶことのできるのは、この歌碑のおかげである。
境内に「お伽羅(きゃら)の供養塔」がある。哀しい人柱伝説が伝わるという。説明板を読んでみよう。
昔、幾日も幾日も大雨の降り続いた年がありました。鬼怒川は増水し、河畔の村々では皆が今にも決潰(けっかい)しそうな堤防を固唾(かたず)をのんで見守って居りました。逆巻く濁流に全てを押し流される恐怖心は募るばかりで誰も彼も唯なす術もなく、天を仰ぎ無力感に襲われるばかりでした。
そんな時、誰云うともなく「竜神さまに人柱をたてて怒りを鎮めてもらおう」と、いい出しました。その声は次第に広がり、誰を人柱にするかということになりましたが、誰もすすんで人柱に立てようとする人は居ませんでした。人柱をたてるということは難工事の際、荒ぶる神の心を和らげる為、犠牲に(いけにえ)として生きた人を水底や土中深く生き埋めにすることですから誰一人として愛しいわが子を人柱にはしたくなかったのです。
そのとき何処からともなく「お伽羅を人柱にしよう」と誰かが云い出しました。お伽羅と云う娘は、諸国巡礼の母娘の二人連れで旅の途中、水海道迄来た時、母は病気で亡くなり天涯孤独の身となった娘でした。名主が境遇に同情し奉公人として養って居りました。気立ての良いこころのきれいな娘でしたが村人達は身寄りのないお伽羅を人柱にしようとしたのでした。名主は反対しましたが他に代わりがあろう筈もなく、とうとう賛成し人柱とすることがきまりました。嫌がるお伽羅を「皆の為、村の為に犠牲になってくれ」といい、水中に投げ込んでしまいました。お伽羅は哀しい悲鳴と共に激流の中に身を没してゆきました。やがて悲しい出来事も終り村は水没することもなく家屋敷財産田畑、何一つ失うことなく人々は助かりましたが、一人として明るい表情をみせる人はいませんでした。皆が罪の意識にさいなまれ、或る者は「川の中からお伽羅の泣き声が聞こえた」といい、又、村に疫病が流行りはじめると「お伽羅の祟りだ」と言って畏(おそ)れました。いつか人柱にしたお伽羅を供養しようということになり、村中こぞって鬼怒川辺りでお伽羅の霊を慰めました。
村落の菩提寺であり、此の地方の本寺でもある安楽寺に供養塔を立て、お伽羅の菩提を弔いました。疫病もおさまり平安な暮らしが戻ると、お伽羅の供養の為として「伽羅免(きゃらめん)」と呼ばれる田畑をお寺に寄進し、永代に亘り供養がつとまるようにとの、村人の願からでした。茲にまつられる石塔は村人の改心と感謝の誠をあらわしたものと伝えられて居ります。優しいお伽羅の哀しい一生を思い遣り、懺悔と慈悲の懇ろなる供養と末永き回向がつとめられますことを念じつつ……南無妙法一心観佛
安楽寺第五十六世住職博英謹誌
この日、私の見た鬼怒川は、まことに穏かな流れで、「絹川」の名がふさわしいように思った。しかし、ダムもない古い時代は、手の付けられぬほどの暴れ川となることもあったろう。
この伝説が語るように、鬼怒川の治水は地域の存否を懸ける大事業であったし、今もそうである。近年では平成14年7月の台風6号、平成23年9月の台風15号の豪雨による増水で床上浸水の被害が出ている。
この安楽寺は様々な面から史跡を楽しむことができる。菅原道真父子ゆかりの寺、元三大師の勧請、江戸城鬼門除けの祈願寺、篠塚伊賀守の供養塔、伊賀局の歌碑、そして、人柱伝説。
付け加えると、作家の今東光が修業した寺でもある。さらには第54世住職の落合寛茂(おちあいかんも)大僧正は昭和38年から41年まで1期、日本社会党の国会議員を務めた。この間、原水爆禁止日本国民会議の発足に関わっている。なんとも、すごいお寺である。