ずいぶん昔に結城駅で降りて歩いて南に向かい、「水野忠邦の墓」を訪ねてから西へ向かい、古河駅から乗って帰ったことがある。思った以上に長い距離だったので、最後は足を引きずるという過酷な歴史探訪となった。
古河駅へ向かう途中の道路の案内標識に「岩井」の地名を見つけ感激したことがある。岩井市は平将門の本拠があり、そして終焉の地である。ここにはぜひ行きたかった。それというのも、大河「風と雲と虹と」のラストで将門が矢を受けて討ち取られるシーンが強く印象に残っていたからである。
チャンスなどないと諦めていたが、自転車で巡るという機会に恵まれたので、ついに岩井市にやってきた。すると、市の名前は坂東市に改められていた。
坂東市岩井に「国王神社」が鎮座する。この神社が蔵する高さ76cmの「寄木造平将門木像」は県指定文化財である。
市内のさしま郷土館ミューズで平将門公生誕1111年記念特別展「平将門伝説~東国の自立を夢見た男その史実と伝承~」という興味深い展覧会があった。将門公は902年生まれという説から、2013年を1111年の記念の年としたのだろう。
この展覧会であの将門公の木像をついに拝観することができた。そして、その翌日この神社に参拝したのである。坂東市の説明板を読んでみよう。
祭神は平将門である。将門は平安時代の中期、この地方を本拠として関東一円を平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(九四〇)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。
その後長い間叛臣の汚名をきせられたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つであろう。
本社に秘蔵される将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている。
将門の木像は、三女の如蔵尼(にょぞうに)が刻んだものだという。如蔵尼とはどのような女性なのか。鎌倉末期の仏教史書『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』に詳しい。読んでみよう。巻十八「如蔵」の書下し文を読んでみよう。(『通俗元亨釈書和解』巻之下、法蔵館、明26)
如蔵尼は平将門第三の女(むすめ)なり。姿形(すがたかたち)勝れて美色ありければ、数多(あまた)の人家より縁を通じてこれを聘(めとら)んと擬す。されども女かつてこれを許さず。さる程に将門誅(ちう)に伏(ふく)するに及んで、遁(のが)れ走りて奥州に到りける。此女元より塵世(ぢんせ)の情薄かりしゆへ、慧日寺(えにちじ)の傍(かたはら)に於(おい)て菴(いほり)を縛(ゆひ)て、わびしき寡(やもめ)の住居(すまい)をなす。一日(あるひ)の事なるに病を受て気絶(いきたへ)ただちに炎王宮(えんわうきう)に至りしが、庭上(ていしやう)に無数の罪人を繋(かけ)てあり、時に小比丘(せうびく)錫杖(しやくぢやう)を持て至ることあり。諸(もろもろ)の冥使(みやうし)はこれを見るより席を避(さけ)て曰(いわく)「地蔵菩薩又来りたまへり」と。時に此女、地蔵の名を聞て趨(はし)り向ひ啓(まふ)して曰「大士我を救ひたまへ」と。菩薩すなはち女を将(ひき)ひて庁所に赴き告(つげ)て曰「此女は信心堅固の夫人(ぶにん)なり。女形(によぎやう)を受くといへども、あへて欲事をせず。此度(このたび)は本土に帰らしむべし。此(ここ)に繋(つな)ぐべからず」と。炎王(えんわう)の曰「謹(つつしん)で命を受申(うけまふ)すなり」と。其時に菩薩はすなはち女を送りて門を出(いで)たまひしが又告て曰「汝(なんぢ)我(わが)言(ことば)を受持(うけたも)たんや否(いや)」と。女の曰「大慈(だいじ)かくも我を済(すく)ひたまへり。この上何とて違戻(いるい)すべけんや」と。菩薩唱へて曰「人身(にんじん)受がたく仏教遭(あひ)がたし。今より後、一心に精修して身命(しんみやう)を惜(おしま)ざれ」と。女聞已(ききおは)つてすなはち蘇息(そそく)せり。やがて沙門を屈して出家の姿となり、法名を如蔵(によぞう)と云(いへ)り。専心に地蔵の号を持(たも)ちしかば、世に地蔵尼と称じける。年は八十余なり。端坐(たんざ)して滅せり。
如蔵尼は平将門の三女である。美しいのでたくさんの求婚があったがすべて断っていた。父将門が討たれた時は奥州にのがれた。身を寄せるところもないので、慧日寺(福島県耶麻郡磐梯町)のそばに庵を結んで住んだ。
ある日、病によって息が絶えると、地獄へ落ちてしまった。見ると無数の罪人が列をなしていたが、ある時、錫杖を持った小さな僧がやってきた。地獄の者たちが道をあけて言った。
「地蔵菩薩さまがいらっしゃった」
女は走り寄って言った。
「どうか私をお救い下さい」
お地蔵さまは女を閻魔大王のところへ連れて行きおっしゃった。
「この女は信仰心の篤い善人です。現世に戻してやりなさい。ここに留め置いてはなりません」
閻魔大王は言った。
「おっしゃるとおりにいたします」
お地蔵さまは女を連れて地獄を抜け出しておっしゃった。
「あなたは私の言ったとおりの善人でいることができますか。それとも無理ですか」
女は言った。
「お慈悲で私は救われたのでございます。どうして期待に背くことがありましょうか」
お地蔵さまはこうおっしゃいながら去って行かれた。
「奇跡によって人として生まれ、ありがたい仏の教えに出合えたのです。身命を惜しまず仏道に励むがよろしい」
そう聞き終わって女は息を吹き返した。
女は出家して法名を如蔵とした。地蔵の御名を持つので世間からは地蔵尼と呼ばれた。80歳をこえる長寿で姿勢正しく亡くなったということだ。
信仰に生きた素晴らしい女性だった。その如蔵尼が父の菩提を弔うために、石井(坂東市岩井)の地に戻っているようだ。村上春樹『平将門伝説ハンドブック』(公孫樹舎)の「国王神社」の項を読んでみよう。
天禄三年(972)、平将門の娘、如蔵尼が父の三十三回忌に、その尊像を刻し、神祠に納め、将門の尊霊を祀り、総州一国の王の意味で、国王大明神と称して、天下泰平・国家安全を祈念したという。それ以来、将門を祀る神社として崇敬を集め、今日に至っている。なお、この社には、平将門の笏や鬼神丸の太刀、菱花の銅鏡、古扇などの宝物もあったが、今は失われてしまった。
如蔵尼は父の三十三回忌に故郷に戻ったのだ。残党狩りが一段落したのを見はからい、弔い上げの意味もあって帰ってきたのだろうか。
では、神社が鎮座するこの場所は、将門とどのようなゆかりがあるのだろうか。日本教育文化協会『関東中心平将門故蹟写真資料集』の「国王神社」の項を読んでみよう。
市街から北へ約二キロの地。乱後将門の二女、如蔵尼が石井の地を訪ね、里人から父君最後の地はここと教えられて、手ずから刻んだ束帯姿の将門像を納め祀ったのが始まりといい、神体として今も伝わる。明治年中、皇国史観によって「逆臣将門」のレッテルを張られ、国王の「王」の字に点を入れよ、入れないで官憲と地元が対立、ついに地元側ががんばり通したというエピソードが残る。
将門公を祀る国王神社の鎮座地は、将門が討たれた場所であったのだ。優しい里人の案内で娘は父の最期の地で菩提を弔うことができた。
その里人は千年近い時を経た明治の代でも官憲に抵抗する気概を失っていなかった。将門公を誇りにしていることがよく分かる。今年も11月9日(日)に第41回岩井将門まつりが開催され、國王(国王)神社では戦勝祈願が行われた。将門の精神は今に生きている。