先月7日に李香蘭こと山口淑子さんが亡くなった。といっても参議院議員時代の姿しか知らない。その山口さんが李香蘭だったころ、一時期、親しくしていたのが「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子である。
川島芳子は愛新覺羅顯玗(あいしんかくらけんし)という清朝の皇族で、日本の満蒙工作に協力しスパイ活動を行ったという。マタ・ハリは第一次世界大戦においてドイツとフランスで諜報活動をしていたという女スパイである。
近年も北朝鮮の美人スパイ(元正花)だとか、ロシアの美しすぎる女スパイ(アンナ・チャップマン)だとかで世間が賑わったことも記憶に新しい。この手の話は面白おかしく語られるので、どこまでが本当なのかよく分からない。
取手市米ノ井に「桔梗塚(ききょうづか)」がある。
平将門の愛妾、桔梗御前(ききょうごぜん)については「平親王と七人の侍」という記事で紹介したことがある。そこでも引用した大岡昇平『将門記』の一節は、今回の記事にも重要な示唆を与えてくれるので再掲しよう。
江戸時代の劇作家や伝奇小説家によって、将門はさらに巨大化される。七人の蔭武者を持ち、太陽を呼び戻したり、飛雁を睨み落としたりする幻力が附される。仇敵たる叔父良兼の妾桔梗の前を奪ったが、後には田原藤太こと藤原秀郷に密通されて、顳顬(こめかみ)の弱点を通報される。藤太が動く顳顬をひょうと射ると、たちまち七人の蔭武者は消え失せ、本物の将門は死骸となって横たわる。将門の呪いによって、相馬郡には桔梗は咲かない、ということになるのだが、事実はむしろその逆で、薬品としての相馬桔梗を江戸に宣伝するための、劇作家の趣向であったという。
こんな話から、桔梗は藤原秀郷の放った女スパイだった、という見方が生じるわけだ。実在かどうかも定かではない桔梗は、さまざまに人物造形される。取手市教育委員会などが昭和63年に設置した古い説明板には、次のように記されている。
承平、天慶の乱(九三九年)の中心人物、平将門(たいらのまさかど)に由来する伝承地。相馬日記に「米野井の桔梗が原といふは、将門が妾桔梗の御前といふが殺されける所にてその墳あり。今も桔梗はありながら花咲くことなきは、この御前がうらみによれるなりといへり」とある。
竜禅寺に伝わる話では桔梗姫は大須賀庄司武彦の娘で将門との間に三人の子をもうけ、薙刀の名人であったが将門の戦勝を三仏堂に祈願しての帰路、この地で敵将藤原秀郷に討たれたと云う。
また一説には将門には常に七人の影武者がそばにいた。桔梗はだまされて本物は「こめかみ」が動くことを敵に教えたので将門はこめかみを射られて討死にした。その後秀郷は桔梗をも口塞ぎのため殺したと云う。
いずれにせよ郷土の英雄を慕う地元の人々がこの地を悲劇の舞台として語りつたえたものであろう。
ここでは、桔梗は暗躍するスパイではない。けなげに将門を思う悲劇の女性であったりする。将門の弱点を秀郷に漏らしてしまったが、スパイとしてではなく騙されたのである。気の毒な人だ。
殺された桔梗の恨みか、裏切られた将門の呪いか、この地には桔梗が咲かないという「咲かず桔梗」伝説がある。しかし、大岡昇平の指摘によれば「薬品としての相馬桔梗を江戸に宣伝するため」のストーリーだったという。どういうことだろうか。
江戸後期の下総の国学者、清宮秀堅(せいみやひでかた)の漢詩文集に『北総詩誌』がある。この中で注視すべきは、桔梗塚を紹介した後に続く次の記述である。
此地桔梗、今猶不著花、蓋妄傳也。大抵薬種用根者、去花而實其根。不特桔梗。
この地の桔梗は今なお花をつけないというが、これは俗説であろう。桔梗を漢方薬とするには根を用いるが、根を太らすのに花を摘んでいるのだ。
何だそういうことか。呪いの「咲かず桔梗」伝説のオチは、良質な生薬を得るための摘花だったのだ。見事なストーリーテリングではないか。相馬地方で咲く桔梗をこの地ゆかりの平将門と結び付け、オカルトチックでありながら切なさを漂わせる物語に仕上げている。
もう一度、写真を見てみよう。桔梗という女性一人の塚というが、ずいぶん多くの五輪塔が集められている。『将門伝説』(梶原正昭・矢代和夫、新読書社)によれば、「桔梗伝説地のほとんどが、古い戦場の跡であり、戦歿者の墳墓を近くにもっている場合が多い」という。とすれば、ここもやはりそうなのだろう。
「咲かず桔梗」伝説のからくりを明らかにしたが、なあんだ、で終わる話ではなかった。名も伝わらぬ戦没者の鎮魂を、土地の人々は桔梗の供養に仮託して行っていたのである。