仏様にも様々な方がいらっしゃって、とても覚えきれるものでもないが、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩の三尊の御名はよく耳にする。性格の違いは不勉強で分からないのだが、有難さは漠然と感じている。この三尊を一同に祀ったお堂のレポートである。
取手市米ノ井(こめのい)の米井山(べいせいざん)無量寿院龍禅寺に「龍禅寺三仏堂」がある。国指定重要文化財である。
「米ノ井」「米井山」と似ているのが気になる。何か由来がありそうなので調べてみた。『関東中心平将門故蹟写真資料集』(日本教育文化協会)である。
米ノ井の地
将門が武運長久祈願のため三仏堂詣でをしたとき、堂前の井戸水が吹き上げて中から米があふれ出た、これぞまさしく瑞兆ということでこの地名が起きたという。井は堰で、これはかつて利根川(当時は藺沼)沿いに堰を築き、水田を開拓した将門の功績を神秘的に伝えたものとみられている。
井戸から米があふれ出たというのは荒唐無稽ながらも、イメージとして捉えやすい。あふれるのは豊かさの象徴である。井戸の前でウハウハしている人の姿が目に浮かぶようだ。
関東平野の古代は今からは想像もつかないほどに低湿地が多かった。その水を制御し穀物を生産することは、社会の発展そのものである。それを為しえた人物こそ平将門であった。将門信仰の淵源はここにある。
「米ノ井」地名発祥の地である三仏堂には、次のような言い伝えがある。
『平将門伝説ハンドブック』(村上春樹、公孫樹舎)
延長二年(924)に、伝誉大阿闍梨が創建し、承平七年に将門が修復したと「由緒書」にある。平将門は、ここで生まれたと伝える。将門の母は、将門を生んだ時、矢が通らないようにと、大蛇になって火を吹き、体をなめたが、脳天だけは残しておいたという。後に、将門は脳天を射られて死ぬことになる。
これは凄い。ギリシャ神話のアキレウスと同様な英雄伝説である。アキレウスの場合は、母テティスが不死身を願って不死の水に入れたものの、足首を掴んでいたためにアキレス腱が水に浸らず弱点となった。だが、母テティスが普通の姿であるのに対し、将門の母は火を吹く大蛇である。これにはアキレウスも真っ青だろう。
『将門伝説』(梶原正昭・矢代和夫、新読書社)
平将門の創建という。将門出生の地ともいい、父母の冥福を祈るために、将門が弥陀・釈迦・弥勒の三尊を祀った三仏堂を建立せしと。(『北相馬郡志』・広瀬渉『平将門論』)
出生の地だとか三仏堂の建立だとか、龍禅寺は平将門とのゆかりが深い。では写真に見る美しい三仏堂もそうなのか。取手市教育委員会の説明板を読んでみよう。
北相馬郡に残る中世建築として当初の姿を忠実にとどめており、中世から近世にかけての建築の流れを知る上に貴重な遺構である。
三仏堂は延長二年(九二四)の創建と伝えられ、釈迦、弥陀、弥勒の三仏をまつる。現在の建物は建築様式から室町時代後期のものと推測され、さらに内部にあった永禄十二年(一五六九)の木札から詳しい年代がわかった。三間堂の平面であるが、正面に一間外陣を設け、さらに両側面と背面にもこしをつけた構成になっている。組物は出組と平三斗で、木鼻と板蟇股に簡素な彫刻がある。彩色はない。屋根は茅葺きの寄棟で軒を二重にしている。解体したとき、部材のいたる部分に梵字で経文が書かれており、さらに仏壇下の地下に壺が埋められていた。
禅宗様と和様の混合した建築様式にくわえ、特異な平面形式はこの建物を他に類のないものとしている。
ここには将門伝説は登場しない。おそらくはこの地を支配した相馬氏が将門末裔ということからの連想で伝説が生じたのであろう。
それでもこの三仏堂は、説明にあるように建築史上貴重な遺構だそうだ。特に裳階(もこし)が左右、後方の三カ所にみられるのは全国でもここだけという。裳階とはこれである。
このような貴重な建築物に将門伝説が付け加えられ、しかも仏様のうち代表的な三尊が祀られている。これはとってもお得な文化財ではないか。まことに有難いお堂のお話でございました。
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