歴史が面白くなってきたのは、昭和51年の大河ドラマ『風と雲と虹と』を見てからだ。その時、母親に初めて文庫本を買ってもらったのだが、それが大岡昇平『将門記』(中公文庫)であった。漢字が難しくてなかなか読めない。辞書を引いてふりがなを振った。しかし今、読み返すとけっこう調べ間違いが多く、しかも途中で諦めている。背伸びをしてみる昔の自分に苦笑した。
晒された首が「われに失われた四肢を与えよ、さらば一戦を試みん」と歯がみしたとか、将門の呪いによって相馬郡には桔梗は咲かないとか、印象的な伝説や相馬や小貝川など『将門記』に登場する地名が記憶に残っていた。
想像を巡らすだけだった坂東の地。ちょうど今、機会を得て滞在している。城跡のある丘陵地、それを囲んで田となった湿地帯、その向こうに長く続く緑は自然堤防。鬼怒川と小貝川に挟まれた乱流地帯で平将門の面影を探したのであった。
守谷市本町の守谷市立守谷小学校の校門付近に「平将門城趾」の石碑がある。地元選出の衆議院議員であった齋藤斐らが発起人となって明治34年11月に建てたものだ。
小学校から住宅地を抜けて北東に公園があるが、この辺りは「守谷城址」という市指定の史跡で茨城百景の一つである。下のような「平台」と呼ばれる場所や土塁、空堀を見ることができる。
この守谷城址は、大岡昇平『将門記』に次のように登場する。
いまの茨城県北相馬郡守谷に将門の偽宮跡と称するものがある。平氏系図によれば、将門の母は相馬の犬養氏から出ていることになっていて、将門が幼時相馬小次郎と名乗ったことが、各書に散見する。この地を領した相馬氏は、将門の子将国の末と称しているのだが、偽宮は明らかに後世の建築物である。
「将門記」その他同時代の記録に相馬氏の名がないから、家門を飾るための工作であることは明らかなのだが、ここでも、将門を先祖とするのが、鎌倉時代には名誉と考えられていたことに注意すべきであろう。
守谷城はここを本貫地とする下総相馬氏の居城である。近世大名となった奥州相馬氏も同族で、もとは板東の名族の千葉氏であり、将門の叔父である良文の流れを汲むという。
将門が築かんとした王城については、村上春樹『物語の舞台を歩く 将門記』(山川出版社)に次のように記されている。
将門は新皇を称し、王城の建設を決めた。「下総国の亭の南に建つべし」と書かれていて、漠然と現茨城県坂東市の岩井の辺りと考えられている。この王城について、古来の文献をみると、まず、「相馬郡に都する平親王」の表現が注目される。江戸時代にはこれに影響されて、「相馬古御所」や「相馬偽宮」という言葉が文芸作品の中に現れてくる。その場所が現茨城県守谷市守谷の相馬氏の居城にあてられた。江戸の文人たちはこの城跡を訪れ、紀行文に著わした。今は守谷城址公園になっているが、その入口には、平将門城趾の石碑が立っている。
つまり守谷城は相馬氏の居城ではあるが、実際には将門とは何の関係もない。しかし、その相馬氏が将門の末裔と称することによって、将門ゆかりの地とのイメージが生じ、「相馬偽宮」と呼ばれるようになった。伝説は、人々がさもありなんと思えば、一人で歩き始めるのだ。
守谷城址は将門の王城に擬せられた。新皇が君臨する板東国の首都となったことを空想してみるのも面白い。住みよさランキング総合1位(2008年)の守谷を本拠とするとは、さすが将門、目の付けどころがシャープである。
追記:つくばでの研修で出会ったB5班のみなさん、たいへんお世話になりました。とても楽しく有意義な時間を過ごすことができました。これからも、お互いに頑張りましょう!
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