報道によると、「ゴルフの聖地」と呼ばれる英国のセントアンドルーズを拠点とする1754年創設の「ロイヤル・アンド・エンシェント・クラブ」が18日、260年にわたり男性だけを会員としてきた規則を見直し、女性に門戸を開くと発表したようだ。今なおそのようなことが残っていたのかと驚いた。
女人禁制を話題にしようというのではない。「聖地」を探していたら、このニュースが目に留まった。ゴルフをやらないので「ゴルフの聖地」の有難味も分からないが、和歌と俳句なら作らないが分かる。本日は我が国における「詩歌の聖地」を見付けたのでレポートしよう。
明石市人丸町の柿本神社の境内に「柿本人麻呂歌碑」がある。
この地と人麻呂とのゆかりは二つある。一つは天武四年(675)3月9日に播磨守に任ぜられたことである。もう一つは「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」と明石の歌を詠んだことである。これにより仁和三年(887)、明石に柿本神社(人丸神社)が創建された。
そして、享保8年(1723)の柿本人麻呂一千年祭にあたり、正一位と「柿本大明神」との神号が与えられた。今では「学問文芸安産良縁の守護神除火災神」(「人丸山柿本神社御由緒記」)として地域の人々に親しまれている。
学問文芸の御利益は、「歌聖」と讃えられるほどの腕前だから間違いない。安産良縁の御利益は、ひとまろ→ひとまる→ひとうまる→人生まる、というシャレからである。火除けの御利益も、ひとまろ→ひとまる→火止まる、というシャレである。言葉の達人、人麻呂のことだ、言葉遊びでのご利益も心配ない。
信仰に疑問をはさむ必要はないのだが、実証主義的な見方をすれば二つの指摘ができる。一つは播磨守任官についてである。出典は「石見国風土記逸文」で、『詞林采葉抄』第九に次のように記されている。
石見國風土記曰、天武三年八月、人丸、任石見守、同九月三日、任左京大夫正四位上行、次年三月九日、任正三位兼播磨守。
『詞林采葉抄(しりんさいようしょう)』は遊行僧由阿が著した万葉集注釈書で貞治五年(1366)に完成した。ただし、上記の記事には「ほんまかいな」という疑義が生じている。正四位上は大宝律令による位階で天武朝にはなかったし、研究によれば人麻呂は正三位のような高い官位ではなかったと推測されているのだ。
もう一つは、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」についてである。今では人麻呂の代表作とは思われていないが、長い間、人麻呂の、そして和歌の傑作だと思われていた。
出典は「古今和歌集」巻第九羈旅歌(409)で「よみ人知らず」だが、「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」と註がある。この歌に着目して激賞したのが、11世紀初頭の藤原公任の歌論書『和歌九品(わかくほん)』である。公任は和歌の優劣を論じているのだが、「ほのぼのと」の歌は「上品上(じょうぼんじょう)」と最高位に位置付けている。
上品上 これはことばたへにしてあまりの心さへあるなり
春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみてけさは見ゆらむ(註:壬生忠岑)
ほのぼのと明石のうらのあさ霧に島がくれ行く舟をしぞ思ふ
どうも柿本人麻呂は実像以上に高く評価され、やがて神性が備わり信仰の対象となっていったようだ。「歌聖」の誕生である。
では、柿本人麻呂の真作は?、そして代表作は?と気になるところだ。その真作が上の写真の二つの歌碑である。向かって右の碑には、変体仮名を交えて次の歌が刻まれている。歌人の金子薫園の筆である。
大君は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)のうへに いほりせるかも
天皇陛下は神様なんだ。だから、あんなに高い場所にいらっしゃるんだね。天武朝以降の天皇の神格化を示す史料でもあるこの歌は、昭和17年に「愛国百人一首」の第一番に採用されている。出典は『万葉集』巻三235の歌である。歌碑は奈良県高市郡明日香村雷の雷丘(いかづちのおか)にもある。というか、明日香のほうが場所としては相応しい。
左の碑には「明石」が詠み込まれた歌が刻まれている。やはり歌人の尾上柴舟の筆である。金子とは明星派に対抗する叙景詩運動において盟友の間柄である。彼らは人麻呂をお手本にしたのだろうか。
天ざかる ひなのながちゆ 恋ひくれば 明石のとより やまとしまみゆ
遠くからやっと帰ってきたよ。明石からは大和も見えるねえ。ホッとするなあ。『万葉集』巻三255の歌であり、人麻呂の真作で間違いない。この歌こそ、人麻呂と明石を結ぶ記念碑的な作品である。
社前の展望台には「松尾芭蕉句碑」がある。
松尾芭蕉といえば『おくのほそ道』だが、その1年半ほど前、貞享四年(1687)10月25日に、芭蕉は江戸を発って『笈の小文』の旅を始めた。東海道を下って、伊良湖崎、伊勢、伊賀上野、大和、吉野、須磨を巡って、明石も訪れている。貞享五年(1688)4月20日のことである。
『おくのほそ道』で大旅行をしている芭蕉。彼が訪れた最北端の地は象潟(さきかた、秋田県にかほ市象潟町)である。だが、意外にも西日本の旅はほとんどない。どうやら、ここ明石の地が最西端のようだ。碑には次のように刻まれている。
蛸壺やはかなき夢を夏の月
夏の月が照らす静かな海で、蛸壺に眠るタコの夢とは何なのか。やがて釣り上げられるとも知らないで。身を守ろうとして入った蛸壺で、逆に捕らえられるとは。はかないねぇ。けれども人生ってそんなもんだよねぇ。
明石のタコは有名で、平成25年7月1日付けで「明石たこ大使」という何ソレ的な役職にさかなクンが任命された。明石の玉子焼(明石焼)の具はタコのみである。つまり、タコで勝負するB級グルメなのだ。平成24年のB-1グランプリであかし玉子焼ひろめ隊が9位に入賞している。
ご当地グルメを詠み込みながら人生を語るとは、さすがは松尾芭蕉、俳句の神様、俳聖である。明石俳句会による説明板を読んでみよう。
旅を栖とした芭蕉にとって明石は西の果てであった。この句碑は芭蕉の七十五回忌にあたる明和五年(一七六八)青蘿が創建、崩壊のため玉屑が復興、更に魯十が再建した。
青蘿とは松岡青蘿(まつおかせいら)、江戸中期に播磨で活躍した俳人である。玉屑とは栗本玉屑(くりのもとぎょくせつ)、青蘿の門人である。芭蕉を尊敬していた人々だ。
明石といえば句碑の向こうに写る天文科学館が人気スポットで、ちょうど日本標準時子午線が通過している時刻の聖地だ。そして今日紹介したのは「歌聖」と「俳聖」が会する詩歌の聖地である。理系と文系の聖地が交錯する明石は、我が国有数のパワースポットなのである。