「日本三天神」は三つの神社にとどまらず、様々な組合せがあるから面白い。講談社+α文庫『雑学・日本なんでも三大ランキング』に掲載れているのは、北野天満宮、防府天満宮、太宰府天満宮である。朝日新聞出版『とっさの日本語便利帳』では、北野天神(北野天満宮)、天満天神(大阪天満宮)、亀戸天神(亀戸天神社)である。
他にも鎌倉市の荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)は三天神社の一つ、福島県耶麻郡猪苗代町の小平潟天満宮(こびらがたてんまんぐう)は三大天満宮、和歌山市の和歌浦天満宮は三菅廟の一つとされる。組合せは様々だが、太宰府天満宮と北野天満宮は常連である。
常総市大生郷町に「大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)」が鎮座する。ここも日本三天神の一つである。
当然ながら御祭神は菅原道真公である。この天満宮は「御廟天神」とも呼ばれる。廟といえばモスクワのレーニン廟のように、お墓というイメージがある。道真公のお墓は太宰府天満宮のはずだが。どういうことだろうか。社務所でいただいた由緒書を読んでみよう。
社伝によりますと、菅原道真公の三男景行(かげゆき)公は、父の安否を尋ね九州大宰府を訪れました時、道真公自ら自分の姿を描き与え「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と言われ、延喜三年(九〇三)二月二十五日に亡くなられました。
景行公は、遺言どおり遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、常陸介(地方長官)として常陸国(茨城県)にやってきました景行公は、延長四年(九二六)に現在の真壁町羽鳥(はとり)に塚を築き、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納め、一旦お祀りしましたが、三年後延長七年(九二九)当時飯沼湖畔に浮かぶ島(現在地)を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城(墓)と定め、社殿を建て、弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、お祀りされたのが当天満宮です。
日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あるといわれる中で、関東から東北にかけては最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、遺族によってお祀りされたのは当天満宮だけであることなどから日本三天神の一社に数えられています。
遺骨を御神体としているのである。やはり、お墓であった。日本三天神の一つというのも説得力がある。創建当初は真壁町羽鳥(はとり)にあったという。三年後にこの地に遷された。その由来を記した「刀研石(かたなとぎいし)」が境内にある。
本碑二面は、当天満宮が真壁町羽鳥より当地へ奉遷された由来を記した縁起碑である。
古来本碑を「刀研石」と呼び、この碑で刀を研げば心願が成就すると伝わる。
本碑は、もと当社の東北方七百米、往古の表参道入口「鳥居所(とういど)」に存在した。現在二面とも長年の風雪により摩滅し読むことはできないが、明治四十四年の解読により左の百二十六文字を刻す。
常陸羽鳥菅原神社之移
菅原三郎景行兼茂景茂等相共移
従筑波霊地下総豊田郡大生郷
常陸下総菅原神社
為菅原道真卿之菩提供養也
常陸介菅原景行所建也
菅原三郎景行卌四才也
菅原兼茂卅七才也
菅原景茂三十才也
菅公墓地 移従羽鳥
定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
延長七年二月廿五日
風雪で磨滅したから読めなくなったのか、刀を研いだから削れてしまったのか。それに、由来の記された大切な碑なのに、なぜ刀を研ぐという行為に至るのか。心願が成就するとはいえ破壊行為であろう。
常陸介菅原景行は延長四年(926)に羽鳥に道真公の塚を築いた。東日本最初の天満宮の創建である。その塚が今もあると聞いて羽鳥へ向かった。
桜川市真壁町羽鳥に「羽鳥天神塚古墳」がある。
天神塚とはいうものの、道真の時代以前の円墳である。だが、ここが東日本最古の天満宮があったという。西日本には道真公の足跡が多く伝わっているが、茨城県には景行公の足跡が伝わる。
景行公が初めに本拠を置いた羽鳥は、平良兼の勢力圏でなかなか思うようにならない。そこで、当時細長い湖であった飯沼の湖畔に進出することとした。これが大生郷への遷座である。
ただし、大生郷まで南へ下ると下総国となる。景行公は下総守も務めていたから、飯沼の水運の利便性に早くから目をつけていたのだろう。
この湖の周辺には大生郷を本社として、崎房、馬場、東蕗田、磯、内野山、幸田にそれぞれ天神社があり、合わせて飯沼七天神という。景行公は飯沼に水運ネットワークを築いていたのだろう。
現在、飯沼は干拓されて豊かな穀倉地帯になっている。これを横断して首都圏中央連絡自動車道、いわゆる圏央道が建設されている。2015年度の開通予定だそうだ。ネットワークはますます広がっていくのである。
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