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朱雀天皇の御製に「ひとりねに ありし昔の おもほえて 猶なき床を もとめつるかな」(玉葉2347)というのがある。独りで寝ていると一緒に寝ていた頃を思い出して君を探してしまったよ。
朱雀天皇は承平七年(937)に煕子女王を女御とした。天慶九年(946)に譲位するが、天暦四年(950)に二人の間に娘が生まれる。ところが煕子は産後の肥立ちが悪かったのか、間もなく亡くなってしまう。
冒頭の御製は、在りし日の女御煕子の姿を追ったものであった。朱雀天皇の御代に平将門の乱があった。一族の内訌が拡大し関東を制圧し新皇を称した。煕子を女御としたのも同時代である。
僭称とはいえ、一時期、東西両帝が並び立ったのである。西の帝朱雀のお后については上述のとおりだ。では、東の帝将門のお后とは、どのようなお方だったのだろうか。
桜川市大国玉字木崎に「后(きさき)神社」がある。御神体は木像女人像で市指定文化財である。
上の写真は資源化物の回収が目についてしまうが、屋根のてっぺんは下のようになっている。
お后さまの美しさを引き立てる意匠で飾られている。どのような由緒があるのか、説明板を読んでみよう。
后神社
祭神 須勢理毘売命 君の御前
承平の頃、豪族平真樹と云う者、大国玉字木崎に居を構え、従五位上延喜式内社大国玉神社並びに、平将門の父良将の遺領大国玉地方を宰領す。妙齢の娘あり「君の御前」と云う。豊田郡国生に住む平将門に嫁す。ときに大串(下妻市)に前常陸大掾源護あり、勢威をふるう。その子に扶・隆・繁あり、君の御前に懸想し、これを得人と、承平五年二月石田(明野町)に住む平国香に援を頼み、将門を襲う。国香また領地を望むなり。戦いは将門・真樹の勝利となり、扶・隆・繁は戦死、国香は自殺す。これより将門は伯叔父たちと相争う。承平七年七月服織(真壁町)に住む叔父平良兼将門を攻む。同月十八日猿島郡陸閑(八千代町)に於て、君の御前とその子斬殺さる。死後祭祀の礼をうく。后神社と称す后の名は、将門が新皇即ち帝を称せしにより正妻の意なり。地名また木崎なり。御神体は、平安時代五衣垂髪の女人木像(村指定文化財)である。岩井市国王神社将門像と対をなすと云うや知らず近くに御門御墓あり。
平成元年一〇月 桜川市教育委員会
この神社は二柱の女神を祀っている。祭神の一柱はスサノオの娘でオオクニヌシの妻であるスセリビメである。もう一柱の祭神、君の御前は平将門の妻で、平真樹(たいらのまさき、まき、またて)の娘とされている。平真樹はこの地を本拠とする豪族で、承平六年(936)に源護の訴えにより将門とともに召喚された人物である。
『将門記』によれば、将門の妻は承平七年(937)8月19日に将門と伯父良兼との戦いで「妻子も同じく共に討ち取らる」、つまり子供とともに殺害されたという。この妻が真樹の娘「君の御前」であり、故郷の后神社に祀られたというわけだ。
ところが、「妻子も同じく共に討ち取らる」の後に「妾の舎兄等が謀を成し、九月十日を以て、竊(ひそか)に豊田郡に還り向わしむ」という記述がある。これをどのように解釈するかでストーリーが異なってくるのだ。
「討ち取られぬ」を「捕らえられた」とすれば、妻と妾が同一人物という解釈となる。この場合、将門の妻は伯父良兼の娘であり、強制的に実家に戻されたが、また将門の許に戻ったということだ。このように解釈するのが村上春樹『物語の舞台を歩く 将門記』(山川出版社)であり、これは本ブログ記事「将門夫妻、愛の物語」で紹介したとおりである。
ところが、「討ち取られぬ」を文字通り「殺された」とすれば、妻と妾は別の人物である。赤木宗徳『新編将門地誌』(筑波書林)はその解釈で、妻は平真樹の娘「君の御前」であり、妾は王宿(おやど、香取市牧野)の娘「桔梗の前」である。良兼は捕らえた桔梗を口説いたが、これに応ぜず「死ぬ」とまで言うので、親元に帰したという。
将門と「女論」があった、つまり女を巡って争ったという伯父良兼の姿は、「お前なんぞに娘はやれん」という厳しい父親なのか、「お前の女をいただくぜ」とニンマリする不埒なおっさんなのか。
后神社と同じ地内、桜川市大国玉字三門に「御門御墓」がある。「后(きさき)」を祀った神社があるのなら、「帝(みかど)」のお墓があって何の不思議もない。
「君の御前」は君主の奥方、新皇となった将門の妻である。ならば「みかど」の墓は、新皇将門の墓ということになる。桜川市教育委員会の説明板を読んでみよう。
御門御墓
この地は、将門の居館があったところといわれ、非業の死を遂げた将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じ、五輪塔を建立して供養したものであろう。五輪塔は、専門家の見立てによれば鎌倉初期の作といわれる。
「みかど」の地名は、初め新皇のいたところという意味から「帝(みかど)」の字を用い、その後、「御門(みかど)」となり、現在は「三門」と称している。三門の集落続きの木崎(きさき)(古くは「后(きさき)」)には、将門の妻「君の御前」を祀る。「后神社」があり、帝・后の地名が天慶の昔時を物語っている。
桜川市教育委員会
将門の居館があったというが、むしろ平真樹のほうが相応しいだろう。村上春樹『物語の舞台を歩く 将門記』が「地元では、平真樹の墓ともいわれている」と記しているのが参考となる。
以前に将門出生の地との伝えがある取手市寺田の相馬惣代八幡宮を紹介したが、ここは将門の母方の祖父県犬養春枝(あがたのいぬかいのはるえ)の本拠地であった。将門の墓との伝えがある御門御墓のある桜川市大国玉は、将門の義父平真樹の本拠地である。将門の関係者ゆかりの地に将門伝説が語り伝えられているのである。
本日は東西両帝のお后(きさき)さまの話をした。煕子女王も君の御前も哀しいことに長命ではなかった。そして、朱雀院も新皇将門も事情は異なるものの、后を亡くして二、三年でこの世を去るのである。愛する人を失うとは、それほどに辛いことなのであった。