今朝の毎日新聞の書評欄で、田山花袋『田舎教師』(岩波文庫)が紹介されていた。ふつう、新聞の書評で採り上げられるのは新作の本だろう。『田舎教師』は近代文学とはいえ、今や古典と呼んで差し支えない定評ある名作である。
評者の荒川洋治氏は、作品に登場する地名や地形を訪ね歩き、地理情報から小説の舞台を理解する楽しみ方を提案している。距離感を実感することで、味わいは深まるのである。
距離といえば、「四里の道は長かった」は『田舎教師』のあまりにも有名な冒頭だ。長く歩いたのだろうな。何のために歩いたのだろう。どこへ向かったのかな。さまざまな関心を喚起する見事な一文である。
本日は『田舎教師』ゆかりの地を、埼玉県行田市から緊急レポートすることとしよう。
行田市水城公園(すいじょうこうえん)に「田山花袋『田舎教師』文学碑」がある。
碑面には次のように刻まれている。
絶望と悲哀と寂寞とに
堪へ得られるやうな
まことなる生活を送れ
運命に従ふものを勇者といふ
田山花袋作田舎教師より
なんというストイックなメッセージであろうか。これが人間の本当の強さなのだ。こんな生き方ができたらと思うが、気が付けば酒で絶望と悲哀と寂寞とを紛らしている。酒に従ふものを酔いどれといふ。
碑面の一節は、小説の主人公・林清三が日記に記した言葉である。5年間の中学校生活を終えた清三は、住まいのある行田から羽生の先にある「弥勒高等尋常小学校」(今の羽生市弥勒)に赴任することになった。友人の父のおかげで得られた就職先である。
何んな生活でも新しい生活には意味があり希望があるやうに思はれる。
清三は胸おどらせながら新任地に向かった。行田から羽生までは歩き、羽生からは人力車に乗った。中学校に通ったこと、卒業の宴のこと、学校の窓から見えた人生と実際の人生、そして文学にラヴ…。さまざまなことが走馬燈のように頭の中をよぎった。四里の道のりの長さは、清三の胸に去来する万感の思いでもあった。
裏面に昭和36年に記された「碑陰の記」がある。作品内容に関係する部分を読んでみよう。
四里の道は長かった これは花袋の名作田舎教師冒頭の文であるが行田から羽生を経て弥勒までの道のりを示したものである。今でも行田には作中に美しく描写されてゐる自然も料亭魚七も柳乃湯も行田文学の印刷所もそのままに残ってゐる。主人公小林秀三は一田舎教師としてこの地に生きこの地に住みここに喜びここに悲しんだのである。行田並びにその周辺の人々や花袋文学に傾倒する男女が田舎教師に深い郷愁を覚えるのも故なしとしない。
行田市行田に「田山花袋田舎教師ゆかりの料亭」と刻まれた石碑が立つ。小説に登場する料亭「魚七」が、ここにあったという。
清三の家はこの近くだ。小説では次のように描かれている。
家は行田町の大通りから、昔の城址のほうに行く横町にあった。角に柳の湯という湯屋があって、それと対して、きれいな女中のいる料理屋の入り口が見える。棟割長屋を一軒仕切ったというような軒の低い家で、風雨にさらされて黒くなった大和障子に糸のような細い雨がはすに降りかかった。
清三のモデルとなった実在の人物、小林秀三の家のあった場所(忍二丁目2番附近)も近い。田山花袋は、若くして亡くなった秀三の日記に取材して『田舎教師』を生み出した。
石碑は昭和54年に建てられた当時、料亭「魚七」の門の中にあったが、今はセブンの駐車場の隅にある。「そのままに残ってゐる」と言われた建物はすっかりなくなってしまった。
それでも荒川氏が指摘したように、『田舎教師』に描かれた地形や地名など地域の相貌は今に残っている。変わらぬのは大地だけではない。「運命に従ふものを勇者といふ」という箴言もまた、私を含め、多くの人々を勇気付けていくことだろう。