消費税が来年10月に10%に引き上げられることになっているが、安倍政権の足元がぐらつくなか、本当に実施できるのかと懸念する声がある。財務省は二度も煮え湯も飲まされ、仏の顔の三度目はないと腹をくくっているらしい。
考えてみれば、国家は税の収奪装置であり、その徴税方法だけでも一冊の本になるだろう。本日は古代税制の諸問題を語る史跡である。
真庭市五反に「白猪屯倉(しらいのみやけ)遺阯碑」がある。揮毫は近代書道の父と呼ばれる日下部東作(鳴鶴)で、大正四年の建立である。
屯倉については「仁徳天皇の直轄地」で、河内の依網屯倉(よさみのみやけ)を紹介したことがある。本日の白猪屯倉は吉備なので、吉備氏が衰退し朝廷の進出が可能になったということだろう。『日本書紀』欽明紀の記述を確認しよう。
(欽明十六年)秋七月己卯朔壬午、蘇我大臣稲目宿禰(そがのおほおみいなめのすくね)、穂積磐弓臣(ほづみのいはゆみのおみ)等を遣して、吉備の五郡に白猪屯倉(しらゐのみやけ)を置かしむ。
卅年春正月辛卯朔、詔して曰く、田部(たべ)を量り置くこと、其の来(ありく)ること尚(ひさ)し。年甫(はじ)めて十余にして、籍(なふむだ)に脱(も)りて課(えつき)を免るゝ者衆(おほ)し。宜しく胆津(いつ)〔胆津は王辰爾の甥なり。〕を遣して、白猪の田部の丁(よほろ)の籍を撿(かんが)へ定めしむべし。
夏四月、胆津、白猪の田部の丁者を撿閲(かんがへみ)て、詔の依(まゝ)に籍を定む、果して田戸(たのへ)を成す。天皇、胆津が籍を定めたる功を嘉(よみ)し、姓(かばね)を賜ひて白猪史(しらゐのふひと)と為し、尋(つ)いで田令(たつかさ)に拜(ま)けたまひ、瑞子(みつこ)が副(すけ)と為たまふ。
欽明十六年(555)7月4日、蘇我稲目や穂積磐弓らを派遣して、吉備国の5つの郡に朝廷の直轄地「屯倉」を設置し、総称して「白猪屯倉」と呼ぶこととした。翌年屯倉が設置された児島郡や遺阯碑のある旧大庭郡も5郡の一つと考えられている。
欽明三十年(569)1月1日、天皇は次のように命じた。「白猪屯倉を設置して十数年、農民の人数を把握してからずいぶん年月が経った。年齢が十歳を越えたのに戸籍に記載されず、課税を免れている者が多い。胆津(渡来人で能吏の王辰爾の甥)を派遣して、課税対象の農民の戸籍を整えよ」
4月、胆津は命じられたとおり白猪屯倉の農民の戸籍を整え、課税対象者名簿が完成した。その功績を称えた天皇は胆津に「白猪史」という姓を与え管理責任者とし、児島郡の屯倉の責任者だった葛城山田直瑞子(かつらきのやまだのあたいみづこ)を副官とした。
白猪屯倉は、実は場所がよく分かっていない。「吉備の五郡」は、一続きの地域か点在しているのか。児島屯倉は、白猪屯倉に含まれるのか別なのか。
それでも、この記事から分かるのは、一人も漏らさず税を取り立てようとしていることだ。当たり前と言えばそうなのだが、千数百年間変わらぬ国家の姿を見ることができる。
また、蘇我稲目という総理大臣クラスのVIPが派遣されて、吉備地方が接収されていることにも注目したい。蘇我氏とのゆかりは、これだけにとどまらない。『日本書紀』敏達紀の記述も確認しよう。
(敏達三年)冬十月戊子朔丙申、蘇我馬子大臣を吉備国に遣して、白猪屯倉と田部(たべ)とを増益(まさ)しむ。即ち田部の名籍(なのふだ)を以て白猪史胆津(しらゐのふひといつ)に授けたまふ。
敏達三年(574)10月9日、蘇我馬子を吉備国に派遣し、白猪屯倉を拡張し農民を増やさせた。そして、農民の戸籍を白猪史胆津に授け管理させた。
蘇我氏が直接乗り込んできた吉備国。大陸との関係から交通の要衝となるこの地の掌握は、大和朝廷にとって不可欠であったのだ。こうして国のカタチが徐々に形成され、のちの律令国家の基盤となる。
このことは農民にとってはどうだったのか。国家という巨大な権力に剰余生産物のすべてが収奪されるようになってしまったのか。それとも、地方豪族による恣意的な収奪から国家権力によって保護されたのか。
安部政権によるお友達優遇と忖度政治。それに財務事務次官ともあろうお方のセクハラ問題。このぐだぐだで政治への信頼は完全に失墜している。このままでは、消費税引き上げを「収奪」と受けとめる人が多くなるだろう。
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