世界遺産となった「潜伏キリシタン」が注目され、関連の史跡を訪ねる観光客も多くなった。「キリシタン」という言葉にエキゾチックなロマンを感じながら旅をするのは、実に楽しい。
だが、自らの魂である信仰を隠さねばならなかったのである。しかも個人的にではなく、地域として何代にもわたって。露見して処刑されることも、ままあった。それが、どれほど大変なことだったか。ロマンという言葉で表すことのできない人生が、長崎の浦上にあった。
長崎市上野町の永井隆記念館前に「帳方屋敷跡」がある。
記念館を訪れる人は多いが、この石碑を気に留める人はほとんどいない。今は原爆の悲惨さと平和の尊さを伝えるスポットも、かつては潜伏キリシタンがひそかに活動する拠点だったという。説明板を読んでみよう。
「帳方屋敷」(如己堂のところ)について
慶長18(1614)年、徳川家康が禁教令を発布したことにより、宣教師は国外追放、教会はすべて破壊されてしまった。
当時、長崎地方には約5万人のキリシタン(キリスト教徒)がいたが、武力抵抗をせず、以後250年間潜伏した。
この間、教義を伝えるための組織がつくられた。
指導者の頭を「帳方」と呼び、四つの郷に「水方(洗礼を授ける役)」を一人ずつ、さらには、各字に「聞役(指令伝達役)」を一人ずつ配置した。
この組織をつくり、初代の帳方を務めたのが孫右衛門で、以後その子孫が帳方を継承し、7代目吉蔵(浦上三番崩れで入牢、獄死殉教)まで続いた。ここはその屋敷跡である。
永井隆博士の妻、緑さんは、吉蔵の子孫にあたる。
現代日本の農村部には「講」「組」あるいは「講組」という共同体を維持する組織があり、宗教行事を協力して行うことも多い。同様に、外国人宣教師が布教していた時代にキリシタンは、「コンフラリヤ」という組織を作って地域における信仰生活を維持していた。
このコンフラリヤが禁教後に地下組織に変容し、何代にもわたって潜伏キリシタンを維持したのである。初代の帳方となった孫右衛門は、浦上のサンタ・クララ教会の世話役をしていた。以後7代にわたって信仰を維持したが、「浦上三番崩れ」という摘発事件により組織は崩壊する。
浦上地区のキリシタンは4度の摘発を受けている。寛政二年(1790)の一番崩れ、天保十三年(1842)の二番崩れ、安政三年(1856)の三番崩れ、慶応三年(1867)の四番崩れである。このうち最も知られているのは四番崩れだが、帳方を務めるミギル吉蔵が獄死したのは三番崩れであった。
『長崎の鐘』で知られる永井隆博士は、昭和九年(1934)8月に下宿先の一人娘だった森山緑と結婚した。緑はミギル吉蔵の曾孫でカトリックの信者だった。永井博士が洗礼を受けたのは、緑との結婚を決意したからだという。
すぐそばに博士の如己堂がある。ここを訪れる修学旅行生には、連綿と受け継がれてきたカトリックの歴史を知り、宗教に自分がいかに向き合うかを考える場としてほしい。人生において宗教の占める割合は今より格段に多かったことを念頭に。