天皇陛下が伊勢神宮へ参拝されたというニュースで、お付きの職員二人がそれぞれに黒い箱を捧げ持つのを見たことがある。一つは長い箱でもう一つは肩幅くらいの箱。どちらも首にかけるベルトが付いているから、ずいぶん大切そうに見える。
それもそのはず、これは「剣璽御動座」といって、三種の神器のうち「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」が、天皇陛下の御旅行に伴って移動するという儀式だったのである。
さて、その三種の神器。天皇に伴って西へ西へと移動し、ついには海中に没するという、あってはならない動座があった。安徳天皇の入水である。その後「八尺瓊勾玉」と「八咫鏡(やたのかがみ)」は回収されたが、「草薙剣」は失われてしまったという。
ならば今の草薙剣は複製品で、ありがたみが少ないのか。そんな単純な話ではなく、幼帝とともに沈んだ草薙剣も複製、いや形代(かたしろ)といって第二の本物であった。第一の本物は熱田神宮に今も安置されているという。同様に八咫鏡も第一の本物は伊勢内宮に古代から伝わっており、宮中にあるのは形代である。ちなみに八尺瓊勾玉には形代がない。
本日は、安徳天皇は壇ノ浦で没することなく、日本海へ抜けて因幡に落ち延びたものの、ほどなくして亡くなった、という哀話を伝える滝を紹介しよう。
鳥取県八頭郡八頭町姫路に「姫翠峡(ひすいきょう)」がある。峡谷とは深い谷だが、姫翠峡は滝である。
道路わきの駐車スペースに説明板はあれど、木々が生い茂り滝はまったく見えない。川へ降りて石伝いに対岸に渡ると、滝らしい流れが見えてくる。近付いて写真を撮ったのだが、これでも一部しか見えていないらしい。八頭町が設置する説明板を読んでみよう。
この滝は小耶馬渓にある滝の一つで姫翠峡と呼ばれています。総高さは50mほどあるように見え、大きく分けて4段階になって小耶馬渓の私都川に落下する長大な滝です。この滝名は、安徳天皇が黒髪を切り落としこの滝に流し尼となり、天皇を偲んだという謂れによります。
どうも意味不明なのは、「安徳天皇が」「尼となり」「天皇を偲んだ」という主述関係である。説明を補足して修正しておこう。
「安徳天皇御陵墓(因幡姫路編)」で紹介したように、檀ノ浦からの脱出に成功した八歳の安徳天皇は、この道を進んだ先にある姫路の里に隠棲したものの、十歳の夏ににわかに病没してしまう。そして、幼帝の死を悲しんだ「女官が」尼となり天皇を偲んだ、ということである。
このあたりはの私都(きさいち)川は、ちょっとした渓谷美で「小耶馬渓(しょうやばけい)」と呼ばれている。ホンモノの耶馬渓は大分県の名勝で、奇岩や美しい滝で知られている。『恩讐の彼方に』で知られる青の洞門もそこにある。その景勝の名を借りた小耶馬渓について、説明板は次のように記している。
また、この小耶馬渓の私都川本流には「魚止め滑床(なめとこ)」や「話投(はなしなげ)の滝」、「彦潭(ひこぶち)」、「子連滝」等の滝や淵が連続する渓谷があります。
川の流れに変化があり、あたりに瀬音が心地よく響く。少し散策してみよう。
「彦潭」である。潭(ふち)という字は珍しいが、淵と同じ意味である。碧潭(へきたん)という熟語は深く青々とした淵のことで、彦潭もそうだ。もう少し先へ進もう。
「子連滝」である。親子二本の流れを見ることができる。耶馬渓は六十六景と呼ばれるほど絶景に恵まれているが、小耶馬渓は姫翠峡を含め説明板で五景が挙げられている。
数は少ないが散策しやすく、アウトドア派にはちょっとした沢渡り、古典派には安徳天皇悲話が魅力となる。私が気になっているのは、姫路の里に落ち延びた安徳天皇一行は三種の神器を携えていたのか、天皇の崩御後は神器をどうしたのか、という点だ。彦潭に沈んでいる、なんてことはないだろう。
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