憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力ためさん
人生はサバイバル。困難が次から次へと降りかかって俺を試しているぜ。私の闘争心は高まるばかりだ。この歌は熊沢蕃山が詠んだといわれる。
願はくは、我に七難八苦を与へ給ヘ
艱難辛苦よ、どんどん来るがよい。七難八苦に遭ったとて、七転八倒なぞするわけがない。七転八起して見せようぞ。山中鹿介の名台詞である。
松江市広瀬町富田の月山富田城跡(太鼓壇)に「山中鹿介幸盛祈月像」がある。昭和53年に鹿介没後四百年を記念して建立された。
限りある身の力を試そうと月に祈っている。ふつうは自分が直面した理不尽な苦難を、神が与えた「試練」と呼んで、合理的に解釈しようとする。ところが鹿介は、これからの苦難を願ったというのだ。尼子再興という大いなる夢を抱く鹿介が、自ら危機を招き入れているかに見える。詳細はアーカイブズ「麒麟(きりん)と呼ばれた武者」で紹介した。
そう思いながら藤岡大拙『山中鹿介紀行』山陰中央新報社を読み進めると、次のような指摘が見つかった。
大町桂月の『山中鹿之助』には
「これより後、常に三日月を拝し、祈って曰く、願はくば我をして七難八苦に遭はしめ給へと」
とある。どうやら教科書に載った鹿介所願の語句は、大町桂月あたりが作り出したものではなかろうか。桂月は、「幸盛の伝を読みて泣かざるものは、断じて男児に非る也」というほど、熱烈な鹿介信奉者であった。彼は鹿介の苦難の一生を眺め、そこから帰納的にこの語句を考え出したものだろう。「三日月の影」を書いた広瀬出身の文部省図書監修官井上赳(たけし)が、桂月の本を参考にしたのは申すまでもない。
鹿介がたどった苦難の人生は、自ら願ったことによるものだ。後世の人がそう解釈したのである。実際の鹿介は言わなかっただろうが、その人生は名台詞にふさわしいものだった。
同じく広瀬町富田に「山中鹿介屋敷趾」がある。
月山富田城の北麓に位置するこの地については、安来市観光協会発行『月山富田城尼子物語』に、次のように解説されている。
山中鹿介幸盛生誕の地
鹿介の生誕地については異説もあるが、山中家は尼子家の分かれであるところから古文書、系図等の調査によってここが生誕地と推定されている。鹿介は天文十四年(一五四五)八月十五日、父満幸、母なみ(立原佐渡守綱重の娘)の次男として生まれた。
ここでは出自が明らかにされているが、確かな史料による裏付けはないようだ。生誕地については、『雲陽軍実記』や『雲州軍話』では鰐淵寺(平田市)の麓、『甫庵太閤記』では富田庄(広瀬町)としている。生年も天文九年説があり、母の名も信憑性を欠く。
巌倉寺に「山中鹿介幸盛公供養塔」がある。
すぐ隣に堀尾吉晴の巨大な墓がある。吉晴が月山富田城に入城したのは関ヶ原の戦いから間もなくのこと。山中鹿介との接点はないはずだが…。説明板には次のように記されている。
幸盛公の遺徳をしのび、慶長7年(1602)堀尾吉晴公の御内儀(妻)によって建てられた。
鹿介が謀殺されたのは天正六年(1578)だから、今日的に見れば死後ほどなくして神格化が始まっていたということなのか。鹿介の逸話を聞いた御内儀が心動かされたのだろう。数多の戦国武将の中でも、記憶に残る魅力ある人物だったのだ。
月山富田城の頂上に「山中鹿介幸盛記念碑」がある。「山中幸盛塔」「従四位勲三等功四級熊谷宣篤書」と刻まれている。熊谷は陸軍の軍人として活躍した名士らしい。
裏には「明治四十四年十二月建之」「幸盛寺殿潤林淨了居士」とある。この時代、尼子十勇士が大変人気で、鹿介はその筆頭に挙げられていた。見晴らしの良い本丸に記念碑が建てられるという主家尼子氏を凌ぐ熱狂ぶりに、忠臣鹿介は困惑していることだろう。
月山富田城から遠く離れた鳥取市鹿野町鹿野の幸盛(こうせい)寺に「山中鹿之助の墓」がある。
七難八苦の逸話が鹿介に分かち難く結びついているのが見てとれるが、これが近代に創造されたイメージであることは先述のとおりだ。本拠地は雲州富田、謀殺されたのは備中松山。ならば因州鹿野に墓があるのはなぜか。説明板を読んでみよう。
山中鹿之助の墓
「我に七難八苦を与へ給へ」と三日月に祈ったという山中鹿之助幸盛公の墓は、この幸盛寺にある。
幸盛公は、尼子氏滅亡の後尼子氏の再興と出雲の奪回のために活躍を続けたが、その雄図むなしく天正六年(一五七八年)備中国甲部川阿井の渡(岡山県高梁市)で毛利氏のために謀殺された。
天正九年、鹿野城主となり気多高草一円を領した亀井武蔵守茲矩公はもと湯新十郎といったが、幸盛公の養女を娶り、亀井氏をついだもので明照山持西寺をこの位置に移し、寺号も鹿野山幸盛寺と改め、舅にあたる幸盛公の冥福を祈るとともに遺骨を高梁から移し、境内に墳墓を築いたものである。
亀井家といえば、長く石州津和野藩主を務め、明治になってから伯爵、近年は久興、亜紀子という政治家を輩出した名家である。そのご先祖さま茲矩(これのり)は玉造温泉の出身で、湯新十郎を名乗っていた。
尼子氏滅亡後に尼子再興軍の山中鹿介とともに行動するようになり、尼子家臣亀井氏の娘を鹿介の養女として妻に迎えることで、亀井の名跡を継いだようだ。慶長十三年(1608)の建立というから、因州鹿野の治政が安定してから鹿介を偲んで建てた墓なのだろう。
多くの人から慕われている鹿介。七難八苦を願ったというが、コロナ禍という長い苦難の道に歩き疲れた現代人には、ヤケのやんぱちやいゆえよのように見える。鹿介が真に求めたのは尼子再興という悲願の達成と平和な暮らしであったろう。新型コロナウイルスに打ち勝った証しとしてオリンピックを開催するという我が国の(首相の)悲願は達成されるのだろうか。