不平士族の反乱が失敗に終わり、言論による抵抗、自由民権運動が盛んになった。板垣退助や大隈重信の活躍を見ると、いかにも士族中心に運動が広がったように思える。しかし、運動の真の担い手は豪農であった。明治11年に地方三新法が成立したことで、庄屋クラス以上の上級農民が政治的な発言力を持つこととなった。
地方三新法とは、郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則である。地方税の主たる担い手である豪農は、町村の戸長となって地域をとりまとめ、県会議員に選出されて殖産興業、民権拡張、教育振興を訴える機会を得たのである。
岡山県苫田郡鏡野町香々美に「晩翠中島衛君之碑」がある。裏面には「明治二十三年六月多志者建設」とあるから、国会開設の年に建てられたことが分かる。
中島衛(なかしままもる)とは、どのような人物なのか。近くの説明板には、次のように記されている。
中島衛先生
明治初年、大庄屋・戸長・県会議員等を経て美作の自由民権運動の中心となり、地方産業の発展、自由民権の拡張、教育の振興に尽力される。
明治十三年に「郷党親睦会」を結成。自由民権の伸張を図ると共に、国会開設請願を推進され、同十四年相互扶助組織「永代共済社」を設立。また岡山県初の政治雑誌「美作雑誌」を創刊。同十五年には「美作自由党」を結成。私財を投げ出し運動に取り組まれるなど、人と為り至誠にして、言えば必ず人を動かすと言われた。
明治十八年、病を得て四十三年の生涯を終えられる。
平成四年五月
大庄屋の家に生まれ、13歳で津山藩から「大庄屋手伝」を命じられた。維新後は戸長を経て、明治13年に県会議員に選出、同15年に「美作自由党」を結成した。美作における豪農民権の中心人物であった。
ところが悲願の国会開設時には鬼籍に入っていたため、同志の人々が中島家の前に顕彰碑を建てたのであろう。現在、中島家の豪壮な屋敷はすっかりなくなっており、わずかな表示だけがかつての栄光を伝えている。
「大黒柱跡」がある。その解説を読んで驚かない人はいないだろう。
大町宗重のカツラが津山城天守の心柱となり、その残木がこの家の大黒柱となった。
津山城天守と中島邸は血ならぬ木を分けた兄弟であった。さすがに格式高い大庄屋である。もともとは岸という家がその役を務めていたが、18世紀半ばに職務召し上げとなり、姻戚関係のあった中島家が跡を継いだという。岸家のご先祖については、以前の記事「消え去った戦国大名の対決」で紹介した。
また、行ったことはないが、鏡野町大町に「宗重の大桂」という巨木があるらしい。この木は心柱を切り出した後の切株から芽吹いたものということだ。
「休嫌学舎跡」がある。休みが嫌いだとは、私にとってはおよそ信じられない。猛勉強私塾の教師を務めたのは、以前の記事「貞烈で純孝な母子の顕彰」で紹介した勤王の志士であった。解説を読んでみよう。
後に津山藩勤王の士となった鞍懸寅二郎が中島家に寄留して教師となった。
ここでの活躍により津山藩に召し抱えられることになった。他藩(赤穂藩)出身ながら勤王・佐幕で揺れる津山藩の中枢で活躍した。才能ある者は生きる場所を選ばない。
「酒倉跡」がある。何もないので想像しがたいが、建物が現存しているという。
熊本市に復元され国際民芸館となっている。
熊本市に「熊本国際民藝館」という民芸運動の拠点施設がある。そのホームページによれば「昭和39年秋 熊本国際民藝館建設工事着工 建物は岡山県鏡野町の酒造蔵を移築 110坪あまりの二階建」とのことだ。
さすがは地方の名士、人脈も富も下々の私たちには想像もつかないくらいだ。自由民権運動のうねりを起こす力量が、さすが豪農にはあったのだ。ところが同じ政治運動でも、大正デモクラシーに豪農が登場しないのは、寄生地主制の進展によるものという。余裕ができたから、文句を言う必要がなくなったのだろうか。
豪農の行く末を知ることなく、中島衛は志半ばにして病に倒れた。豪農が、労働者が、女性が欲し獲得した政治参加の権利は、今や有権者から放棄されそうになっている。50%以下の投票率も珍しくなくなってしまった。私たちはまだまだ中島衛に学ぶ必要があるようだ。