戦国武将にとって戦いの意義は何だったのだろう。ぐだぐだになってしまった室町幕府の再興だろうか。人類が新型兵器鉄砲に打ち勝った証しだろうか。それとも、当代一流の武将が実力を競い合う平和のための戦闘なのだろうか。
支那事変から大東亜戦争にかけては、暴支膺懲から東亜新秩序、大東亜共栄圏へと、その目的が変化した。共栄と標榜するものの、実際には我が国の資源獲得が狙いだった。さすがは亜細亜の盟主、夜郎自大であることに気付いていないようだ。
こんな戦争とは対極に位置するはずの五輪も、完遂の為には目的を選ばないようだ。「復興五輪」の不幸、「平和の祭典」のために払う犠牲、そして「新型コロナウイルスに打ち勝った証し」が見つからない状況が続いている。
津山市大吉(おおよし)に「矢櫃城(やびつじょう)跡」がある。
美作地方の山城は散策ではなく登山である。登山口に至る林道は曲がりくねった細道のため慎重を期して運転し、登山道は土砂崩れのため彷徨いながら上を目指した。谷を登ろうかと思ったが、思い直して尾根を目指すと登山道が見つかった。城は尾根に沿って築かれている。説明板を読んでみよう。
城跡は、標高九一〇mのこの場所にあり、県下で最も高所にあった山城であるといわれている。
矢櫃城は、美作菅家の一門、広戸氏の居城であった。天文二年(一五三三)、出雲の尼子経久の軍勢が美作に侵攻したとき、この城に立て籠もり応戦した城主・広戸弾正広家は、激戦ののち、ついに敗れたのである。
いま残っている本丸の跡は、東西二十五m、南北十八m、北側には高さ三m、幅二mの土塁があって昔の面影をとどめており、本丸の東・南・西の三面は急峻で、とくに南の急斜面は岸壁となり、人を容易に寄せ付けない天然の要害の姿を見せている。
南壁の西よりの岩肌には、間口二・五m、奥行き三m、高さ一・三mの岩穴がある。昔、弓矢を入れていたと伝えられ、矢櫃という名もここから生まれたという。
「美作古城史」より
津山市
このような高所にある山城に、どのような価値があるというのだろうか。確かに見晴らしは良い。陰陽を結ぶ交通路を眼下に望むことができる。だが敵を発見したとて、攻め下りるのに時間がかかる。「お前らの動きは見えてるぞ」と威嚇しているつもりが、「見てればー」と平気で通過されたりしなかったのだろうか。
この城を舞台に戦国の雄尼子氏と美作の国人広戸氏が激戦を繰り広げたという。広戸氏は城が910mの高所にあることを利点として籠城したのだろうか。だが、山上にそれほど広い空間はない。ただ気になるのは南斜面にある岩穴だ。
このような穴があるが、これが「矢櫃」とされた岩穴だろうか。単なる想像の産物なのか、それとも籠城戦の記憶を伝える痕跡なのか。尼子氏は出雲からはるばる美作のこの地に遠征し、高所にあるこの城を攻め落とした。その強大さには恐れ入る。
勝利した尼子氏の大将三次安芸守は、広戸弾正の子新三郎を出雲へ連れ去ったが、長じた新三郎に美作復帰を許した。そして岡本新三郎広義と名乗りを改め城下の繁栄に努めたが、毛利元就と尼子氏が備中で戦った際に討死した、と『東作誌』第3巻「勝北郡大吉庄広戸村草屋分」の「矢櫃城」の項は伝えている。
いっぽう『岡山県中世城館跡総合調査報告書』第3冊美作編では、次のように総括されている。
分国内の国衆も、矢櫃城(No.293。津山市大吉)の広戸広義(新三郎)が、九州攻め出陣中の同15年(1587)に日向国の耳川(宮崎県日向市)で溺死して断絶、原田忠佐が朝鮮出陣中の不行跡で改易、秀家一門の江原親次が慶長3年(1598)5月17日に出陣先の朝鮮国釜山で病死するなど、機会を捉えて宇喜多氏への権力集中が進んだ(「中島本政覚書」、「聞伝記」1、「作陽誌」、「感状記」など)。
年代から考えると、こちらが正しいだろう。中世的な国衆が没落し、近世大名の権力基盤が確立する様子が見てとれる。広戸、原田、江原の三氏が九州攻めあるいは朝鮮役に関わっているのは、三氏が秀吉の重臣宇喜多氏の配下となって遠征していたからである。権力編成が進み、美作国内はまったく静謐になっていた。
そんな新たな時代にあって910mという高所にある城は、無用の長物に過ぎない。人類が戦国という大混乱を収束させた証しとして、山城は捨て置かれることとなる。平和のための戦争はその目的を達成したのである。
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