美作は戦国の草刈場である。周辺勢力が次々と侵入したおかげで争いには事欠かなかったのか、秀逸な山城が多く残る。本日は出雲の雄、尼子氏の勢力下にあった美作南部の城を紹介する。この地から出雲まではずいぶん距離があり、いま米子道で飛ばして行っても、けっこう時間がかかる。これは尼子氏の勢力範囲の大きさを示すことに他ならない。
岡山県久米郡久米南町下籾の籾山神社の奥に「龍王山城跡」がある。町の史跡に指定されている。
写真でも土塁の痕跡を見ることができ、その向こうには横堀がある。さほど峻険ではないものの、備前への進出を視野に入れた山城である。
ふもとの瑞泉院に「岸氏の宝篋印塔」がある。
古色蒼然としているが端正で美しい。説明板を読んでみよう。
この宝篋印塔は岸備前守氏秀の供養塔である。室町時代末期の様式で桃山時代の造立と推定される。
元禄二(一六八九)年津山藩森家の家老長尾隼人勝明編纂の「作陽誌」にも記述がみられる。
この墓地は岸氏が所有しており、昭和三十二年二月二十六日に久米南町重要文化財として指定されている。
岸氏秀という武将の供養塔ということだ。龍王山城は出てこないが、氏秀は当然城主だろう。『作陽誌』で確かめてみよう。
龍王山
在下籾村塁跡存四方有塹曽貴志修理進(或号備前守)氏秀居此元亀年中氏秀於垪和庄和田村高城与宇喜田和泉守相戦軍敗而死直家有其采邑氏秀二子長曰左衛門次曰六内蟄居于備前国津高郡田地古村竊謀故旧覦直家直家聞之遣高田太郎右衛門設計与黒田川田撃而斬之龍堂山阿弥陀寺有氏秀墓
龍王山は下籾村にある。土塁の跡があって四方に堀がある。貴志修理進(あるいは備前守)氏秀がここに城を構えていた。元亀年間(1570~73)氏秀は垪和庄和田村(岡山市北区建部町和田南)の高城(たかんじょう)において宇喜多直家と戦って討死した。直家がここを領地としてから、氏秀の二人の子(兄は左衛門、弟は六内)は備前国津高郡田地古村(岡山市北区建部町田地子)に蟄居したものの、ひそかに旧状を回復してくれるよう直家に願った。これを聞いた直家は高田太郎右衛門に命じて黒田、川田とともに二人を討った。龍堂山阿弥陀寺(今の瑞泉院)には氏秀の墓がある。
確かに岸氏の宝篋印塔について『作陽誌』に記述がみられた。岸氏秀が討死したという高城は、備前から美作への進入路を見下ろす山上にある。龍王山城主の氏秀は美作防衛の最前線に立っていたというわけだ。それはいったい誰のためなのか。大正時代に編纂された『久米郡誌』には、次のような記述がある。
龍王山城の戦
天文年中岸備前守氏秀、尼子氏に属し久米南条郡下籾村に来って龍王山に居城を構へ、覇を近郷に争ふて尼子氏の為に忠節を尽した。尼子氏の勢力衰ふるを見永禄元年十月備前天神山城主浦上遠江守宗景兵を率ゐて攻め寄せた。氏秀固守して防戦に努めたが衆寡敵せず同月十日氏秀戦死しその子秀重、秀守、秀次等敗走して城は陥った。
附記
氏秀戦死の事を校正作陽誌は元亀年中宇喜多和泉守と和田村高城に戦って戦死したとし、美作略史は天正八年二月高城に於て宇喜多勢と戦って討死したと記して居る何れが真なるか天正年中高城にて戦死したのは氏秀の弟氏勝であったのを氏秀と誤ったのではないかと思ふ。
岸氏秀は美作の地を備前勢力から守るために尼子氏から派遣されていたのだろう。ただ、分かりにくいのが戦った時期と相手である。永禄元年は1558年、元亀年間は1570~73年、天正八年は1580年に当たる。
天正年中に戦死したとされた氏秀が弟と取り違えられているとすれば、永禄元年か元亀年中だが、状況を考えれば『久米郡誌』のとおり永禄元年が妥当だろう。備前や播磨に影響力を拡大しようとする尼子晴久と、これを阻止すべく毛利氏と組んだ備前の浦上宗景という大きな構図を描くことができる。
大勢力を誇りながらも歴史の彼方へと消え去った戦国大名、尼子氏と浦上氏。龍王山城は両雄の夢がぶつかる戦場となった。このまま両雄が勢力を二分するかに見えたが、尼子氏の衰退、宇喜多氏の台頭と戦国絵巻は予想外に展開していくのである。
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