雲州広瀬に「月山(がっさん)」という銘酒がある。出逢ったのはかなり前、岡山駅前商店街で行われた酒の試飲販売会でのこと。すっかり酩酊しながらも記憶に残る味わい深い酒であった。いま路上飲みが問題視されているが、昼間から路上で呑んだくれて解き放たれる感覚はたまらない、と言ったら言い過ぎだろうか。
その日本酒「月山」と戦国大名の巨大山城が脳内で結びついたのは、比較的最近のことだ。一時期、中国地方に覇を唱えた尼子氏を思いながら盃を重ねれば、すべてが夢幻の如く思えてくるのである。
安来市広瀬町富田に国の史跡に指定されている「富田城跡」がある。
この崖の上は「千畳平」、その上は「太鼓壇」、「奥書院」「花の壇」を経て、広大な「山中御殿」に至る。
この写真には山中御殿と花の壇が見えている。本丸への登城ルートは「七曲り」と呼ばれる険しい上り坂だ。
坂の途中に「山吹井戸」があり、今も水が湧いている。
山頂にある「本丸」からの眺望は壮観だ。敵には見えにくく、こちらからは見えやすい。これが月山富田城をはじめとする戦国時代の山城の生命線である。
築城者は悪七兵衛景清とも平宗清とも言われるが、比較的史実に近いのは出雲源氏塩冶氏の祖、佐々木義清だ。山中御殿にある説明板には「富田城の始まりは、12世紀の後半、源頼朝が出雲の守護として佐々木義清を任命したこととされます」とあるが、実際に守護となったのは承久の乱後のことである。
尼子経久、晴久が居城した戦国時代に最も栄え、永禄九年(1566)に毛利氏に開城した。関ヶ原後は堀尾氏三代の居城となったが、慶長十六年(1611)に松江城完成によって廃城となった。
城の名称は富田にあるから「富田城」だが、月山という雅な山名を付して「月山富田城」と呼ぶのが一般的だ。山や城の名称について面白い話が、妹尾豊三郎『出雲富田城史』山中鹿介幸盛公顕彰会に掲載されているので紹介しよう。
この山を「月山」というようになったのは、城下町から眺めると、満月以後の月がこの山から出て来るので、「吐月(とげつ)山」といい、更に簡単にして「月山」(月の出て来る山)と称するようになったのである。(富田城と月山城を続けていう場合は「富田月山城」というのが正しい。それは丁度松江千鳥城或は米子久米城というのと同じである)
以上のように三通りの名称があるようだ。正しいかどうかは別として「がっさんとだじょう」は、尼子氏の強大さと失われた栄光を追慕するのにふさわしい響きのように思える。久しぶりに「月山」が呑みたくなった。うちのあたりでは、なかなか手に入らない。
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