歴史の謎の一つに「秀吉はなぜ朝鮮出兵を強行したのか」というのがある。出兵が失敗に終わり、その後数十年で我が国は鎖国に入ることから、する必要のないまったくの無駄な行いだったかのように思える。しかも韓国との間に外交問題が発生すると、今なお亡霊のように韓国民衆の脳裏に現れる不幸な事実であった。
出兵理由の第一によく挙げられるのは、秀吉の野望だろう。後陽成天皇を北京に移すなんぞ荒唐無稽の極みのように感じるが、明国征服構想は信長の野望でもあったらしい。第二の理由は恩賞の土地不足説である。分け与える土地が不足したから大陸を征服しちゃおう。これは合理的な説明のようで、ちょっと単純すぎやしないか。
第三の理由は、東アジア貿易独占説である。当時活発になっていた貿易を独占的に統制することで、我が国の経済基盤を強固にしようとしたのではないか。その証拠は、文禄の役後明国に示した講和条件の2番目に「勘合貿易の復活」が挙げられていることである。これが認められなかったからこそ戦争は継続されたのだ。その後の鎖国政策は貿易統制の一形態だから、豊臣政権も江戸幕府も貿易の在り方を念頭に外交政策を決定していたといってよいのではないか。
津山市一宮に「唐人墓」がある。朝鮮出兵の意図はともかく、本人の意思にかかわらず異国日本に連れてこられた朝鮮の人々がいたようだ。
ただの草叢にしか見えないが、中を覗いてみると…。
Googleマップのストリートビュー(2013年2月撮影)なら草のない状態が分かる。確かに墓石がいくつかあるようだ。説明板を読んでみよう。
この墓の主は、もと朝鮮生まれで、豊太閤の朝鮮役出征の将中島孫左衛門に捕らえられたが、中島は却ってその優れた人材を認め、戦後連れ帰って家来とし、松村弥三郎と名乗らせて農地の開墾、治水の工事などで、実績を上げさせた。この唐人墓のほか、東一宮にある唐人田は、ともに記念すべき称呼である。
松岡三樹彦記
一宮の遺産を見つける会で再建
平成三十年三月
江戸時代、一宮地区周辺の村々を支配する大庄屋を務めていた豪農に中島家があった。そのご先祖様が朝鮮出兵に従軍し、現地の人を連れ帰って家来としたのだという。松村弥三郎と名乗った家来は、農地の開墾などで実績を上げたということだ。このことに関係する地名があるというので探してみた。
津山市東一宮の下河原公園に津山市東一宮土地区画整理組合が建てた希望の塔がある。その副碑に地区の小字が地図で示されている。弥三郎が開墾した農地なのだろうか。『苫田郡誌』第十九章文献に「中島文書」として興味深い史料が掲載されている。
私五代先祖儀は朝鮮国松村之産に而御座候処文禄年中大日本より朝鮮国松村之産に而御座候処文禄年中大日本より朝鮮国王御攻之刻御先祖中島孫左衛門様御陣中に人質擒と成廿四歳に而遥々日本に渡海仕候節助命之儀被仰立被為下夫より弥三郎と改号仕譜代之御家来罷成一生御養育預り妻子等も扶助仕嫡子彦兵衛より私に至迄四代相続仕其外一類共分家繁茂仕候事全御家之御厚恩之段今以不忘置難有仕合に奉存候
寛政二年(1790)の文書である。同じような事情で日本で暮らすようになった朝鮮の人々は各地にいたのだろう。李参平や沈当吉という陶工についてはよく知られているが、一般民衆については歴史の中に消え去ったかのようである。今となっては出身がどこであれ、どのような経緯で来日したかなど関係がない。ただ、朝鮮出兵に伴う事実であったことは記憶にとどめておくべきだろう。
津山市東一宮に「耳地蔵」がある。
朝鮮出兵の象徴的な史跡に「耳塚」がある。京都市の耳塚については「耳塚の悲劇」、備前市の鼻塚については「鼻塚で考えたこと」でレポートした。この耳地蔵も中島孫左衛門の朝鮮出兵に関係するという。説明板を読んでみよう。
大庄屋の始祖中島孫左衛門は、朝鮮出陣中討ち取った敵兵の耳たぶを斬り、戦功の証しとしたが、軍命によることとはいえ、誠に哀れな事なので、帰国後ここに塚を造り、耳地蔵として、その霊を弔った。
松岡三樹彦記
一宮の遺産を見つける会で再建
平成三十年三月
現代からはその残忍さだけが際立って見えるが、当時は戦功の証拠として重い首を持ち帰るより合理的だったのだろう。おそらくは出陣したどの武将もやっていたことかもしれないが、その伝承が残るのは、それほど多くない。せめてもの供養の形が耳地蔵であり、耳塚、鼻塚なのかもしれない。