城跡と桜のコラボレーションは弘前城などいくつも名所があるが、すべて近世城郭である。春に天守や石垣が華やかに彩られているのを見れば、酒の一杯でも所望しようかという気になる。本日は近世ではなく戦国の山城に立つ一本の桜を紹介しよう。花の時季にはひと月早い3月1日に桜の名木を見に行った。空は曇って彩りはなく、樹影だけが存在を主張している。
庄原市東城町小奴可(おぬか)に「小奴可の要害桜」がある。
ネット検索すれば、泣けるほど美しい画像を見ることができる。場所は同じでも時季で世界が異なるようだ。説明板に詳しいデータがあるので読んでみよう。
広島県の天然記念物
小奴可の要害桜(ようがいざくら)
指定年月日 昭和51年6月29日
所在地 広島県庄原市東城町小奴可字要害1866番地外4
樹種 バラ科エドヒガン(江戸彼岸)別名ウハヒガンまたはアズマヒガン
Prunus spachiana(Laval.exH.Otto)Kitam.f.ascendens(Makino)Kitam
現状 主幹 根回り周囲6.56m 胸高幹囲5.70m
樹高 18m
枝張り 北方13.0m 西方10.0m 南方10.3m 東方9.5m
このサクラは、亀山城跡の西側に位置し、かつての居館跡とされる一角に立つエドヒガンで、広島県指定のサクラでも有数の巨樹である。
本州、四国、九州、済州島、中国などに分布し、ヤマザクラなどとともに長命であるが伐採されたり建築用材に利用されたりしてきたため、大木にまでなることはほとんどない。
エドヒガンには、葉が長楕円形、葉柄や葉裏、花柄や萼が有毛、萼筒が丸くふくれた壺形、樹皮の縦溝が目立つなどの特徴がある。
「要害桜」は、砦としての山城にちなんだものだが、他のサクラに先駆けて咲き、苗代をつくる目安になったことから「苗代桜」とも呼ばれ、古くから人々の生活と深くかかわり、大切にされてきた。
長い年月を重ねて年輪を刻んできた古木、樹勢を保つ処置を受けながらも、歴史を見てきた城跡の一本桜として、今もなお偉容を保ち、壮麗な花姿を誇っている。
平成31年3月 庄原市教育委員会
要害桜の名のとおり、城跡の一本桜である。樹齢は五百年を超すという。居館の主も花を愛でたのだろうか。登城路を進みながら、城主の夢と現実に思いを馳せた。
「亀山城跡」の「本丸跡」である。しっかりとした構えだが、それほど高い山ではない。
安芸の毛利氏、出雲の尼子氏、備中の三村氏など、備後の周辺は有力大名ばかりだが、亀山城はどの勢力圏にあったのだろうか。説明板を読んでみよう。
庄原市史跡 亀山城跡
所在地 東城町小奴可
指定年月日 昭和五〇年三月一七日
丘陵を利用して築かれた山城で、亀石城とも呼ばれ、本丸以下段状に郭が八ヶ所築かれ、いたるところに掘切や土塁がめぐらされている。西方のふもとが居舘跡と伝えられ、一角に要害桜が名残りをとどめている。
この城に関する正確な史料は現存しないが、近世の文献によると、平安時代末期には奴可入道西寂の居城であったとされ、その後奴可四郎・奴可源吾・奴可平四郎・飯田新助・亀井武蔵守茲経らが居城したというが明らかでない。
戦国時代の永正年間から慶長年間までは、宮氏の一族である宮下野守定実・同隆盛・同盛常・同盛慶らのいわゆる小奴可宮氏が居城していた。
このうち隆盛は尼子氏に味方し毛利勢とたたかい戦死するが、その子盛常は許しをえて毛利氏の家臣となった。
平成十九年三月 庄原市教育委員会
宮氏は備後最大の国人で本拠は品治(ほんじ)郡(福山市新市町)である。幕府奉公衆として活躍し大内氏や尼子氏に味方して、最後は毛利氏に滅ぼされたという。もう少し詳しいことが『日本城郭体系13広島・岡山』の「亀山城」の項に記されている。
この城は戦国時代には宮氏の一族である小奴可氏が本拠を置いた。小奴可隆盛は天文二十二年(一五五三)、尼子晴久に味方し備後国江田の旗返で毛利氏勢と戦い戦死するが、家督を継いだ小奴可盛常は大叔父で郡山城内の興隆寺の住職策雲竹英の奔走によって毛利元就・隆元の許しを得て、毛利氏の家臣となった。
南北朝期の貞治二年(1363)に、宮兼信は備中守護に任じられている。守護職はすぐに解かれたものの、その後も宮氏は一族で備後東部から備中の一部にかけて勢力を誇った。備後北部では五品嶽城、大富山城を拠点とした久代宮氏が有力で、小奴可氏もその勢力の一翼を担っていたのだろう。
母さん、僕が見た桜はどうなっているでせうね。ええ、春前に比婆山からから東城へ帰るみちで、大きな看板を見て立ち寄った小奴可の要害桜ですよ。夏に繁っていた葉は、このところの冷え込みですっかり色付いちゃったでせうね。そして冬になると、あの山間に静かに雪がつもるのでせう。桜の巨木を埋めるように、静かに、寂しく。