70年代オカルトブームの主役の一人は、確実に「ヒバゴン」だろう。UMAという専門用語のない時代に怪獣呼ばわりされた未確認動物である。ずいぶん昔に『ヒナゴン』という映画を見て、旧西城町を訪れたことがある。そのレポートが「可愛らしい!?ヒバゴン」だ。
本日はオカルトではなく戦前の神話ブームの主役の一柱、イザナミゆかりの地比婆山の登山レポートをお届けする。ひろしま県民の森公園センターから尾根筋を目指して展望園地へ上がる。その後はひたすら立烏帽子駐車場へ歩き続ける。山登りが目的ではないので立烏帽子山には登らず南側の山腹を進み、最初の目的地にたどり着いた。
庄原市西条町熊野に「伊邪那美命の隠れ穴(火除け穴)」がある。登山道から30m外れた場所にある。
それほど大きな穴ではない。人は入れそうにないが、神だから大丈夫なのか。説明板を読んでみよう。
立烏帽子の谷間にある岩穴で、伊邪那岐命が伊邪那美命を訪ねてきた時、夜になったので、自分の櫛に火をつけて明かりとして通った所であると言われる。また、伊邪那美命がここを通りかかったとき、天から火の雨が降ってきたので、この穴に入って難を逃れたともいう。もう一説には、火の神を産んだ伊邪那美命がこの穴で亡くなったとも言われる。
三つの説が紹介されている。最後の説はイザナミ終焉の地ということになる。最初の説はその後日談で、イザナギは直後にトンデモないものを目にすることになる。黄泉比良坂(よもつひらさか)の神話は古墳の横穴式石室からの連想だが、ここは古墳ではないので「隠れ穴」が妥当なのかもしれない。
池ノ段の手前の分岐まで来た。かなりの疲労感があるが、達成感はほとんどない。目指す御陵は正面の山である。平坦な草原が続いているように見えるが、けっこう下って登ることになる。
ついに「門栂(もんとが)」までたどり着いた。片方が折れているが、確かに門のようだ。説明板を読んでみよう。
御陵の南側正面、一対の大樹が各々巨石を抱いて茂り、聖域の門戸を形造っている。
「木の母」の字意から神木と解し、この地方で一般に「とが」とよばれているが、正しくは「いちい」であり、その材質が第一位との語源がある。東洋に置ける最長寿木、古代神殿造営材として重用されたものでアララギの古語がある。
比婆山の魅力は樹林にもあり、ブナ純林は国指定、イチイ群は市指定の天然記念物である。どちらも寒さに強い樹木のようだ。イチイは仁徳天皇が位階を与えたことに由来するとか。聖域の門戸にますますふさわしい。
「神聖之宿処」と刻まれた石碑がある。知の巨人徳富蘇峰の揮毫で、昭和十五年に紀元二千六百年を記念して建てられた。さあ、いよいよ核心部分に向かおう。
庄原市比和町三河内(みつがいち)と同市西城町油木(ゆき)の境に「比婆山御陵」がある。
ここはイザナミが葬られている御陵である。イザナミさんのお墓は他にもいくつかあるらしく、松江市八雲町日吉の「岩坂陵墓参考地」は宮内庁指定だから特に有力だ。では、標高1,256mのこの地に神聖が宿っている、とされるのはなぜだろうか。説明板を読んでみよう。
「・・・故神避りましし伊邪那美命は出雲国と伯伎国との境比婆の山に葬(かく)しまつりき」と古事記に記されているところから、比婆山は、国生みの神伊邪那美命の御陵のある山として、古来より信仰を集めている。山頂のブナ純林の中に開けた円丘の中央には、樹齢千年を越える七本のイチイの老木に囲まれ、伊邪那美命の陵墓とされる苔むした巨石が横たわっている。また、このあたり一帯は、比婆山伝説地として県史跡に指定されている。
ここで紹介されているように、イザナミは比婆山に葬られたと明記されているのだ。ここ以外にどこがあろうか。いや、安来市伯太町横屋の比婆山久米神社が御陵だともいう。しかし、我が国有数の女神であるイザナミなら、スケールの大きな庄原市の比婆山が適当だろう。広島県は昭和十六年にこの地を史跡に指定した。説明板を読んでみよう。
広島県史跡
比婆山(ひばやま)伝説地
指定年月日 昭和16年3月10日
所在地 庄原市西城町熊野525番1 庄原市比和町三河内3232番7他
比婆山(1264m)の山頂は、古事記にいう伊邪那美命を葬った比婆山であるとして、古来より信仰の対象となってきたところである。南麓に遥拝所熊野神社があり、山腹に那智の滝(古名、鳥の尾の滝)がある。神域の巨石及びイチイの老木は神籬盤境(ひもろぎいわさか)として伝承されている。
古事記に「伊邪那美神は出雲国と伯伎(ほうき)国との境の比婆の山に葬りき」とあり、いわゆる「御陵の峰」が神陵のある山である。この御陵を奥の院といい、南方約6kmの山麓にある比婆山大神(伊邪那美神)を祀った熊野神社を本宮という。比婆山は別名「美古登山」ともいい、山上には3haにもわたる広大な平坦地がある。
その中央部付近にある径15mの区域内は昔から神域として伝えられ、雨露に崩れて露出した巨石数個が重畳している。南側正面には一対のイチイ(門栂という)がおのおの巨石を抱いて茂り、伝承にある神域の門戸を形造っているようである。
この栂(正しくはイチイ)は木の母の字意から神木と解し、東洋における最長寿木であり、古代の神殿の造営林として重用されたもので、「あららぎ」の古語がある。御陵の背後に烏帽子岩という大きな岩があり、叩けば太鼓のような音を発するので、太鼓岩とも呼んでいる。そしてその周辺にはそれぞれ巨石を抱くイチイの巨木があり、古来神域の象徴として崇められてきた。幕末以後、神陵参拝が盛んであったが、明治20(1887)年頃、比婆山を神陵として称することが禁じられたため、登拝は衰えていく。その後、地元出身の宮田武義、徳富蘇峰らによって全国に知られるようになった。
平成22年3月 庄原市教育委員会
平坦な山頂を少々散策してみよう。雪を踏みしめて進むと、面白い形をした岩を見つけた。
「産子(うぶこ)の岩戸」である。説明板には次のように記されている。
この巨石は産子の岩戸と呼ばれる。いまにも赤子を産み落とそうとする姿に似ていることからこの呼び名があると伝えられる。
節理と言ってしまえばそこまでだが、何に見立てるかで伝説が始まる。
近くに「太鼓岩」がある。説明板には次のように記されている。
ちょうど烏帽子の形をしたこの岩を太鼓岩という。叩くと低く響く音がすることから、この太鼓岩という呼び名があると伝えられる。
よしと思って叩くと、ペチペチと痛いだけであった。もう少し硬いもので打つと、節理の隙間に反響して響くのだろうか。そのまま道を進むと「神聖之宿処」の石碑まで戻ってきた。あとは帰るのみ。斜面には雪が積もっているので、ザックザックと跳ぶように下りた。雪の柔らかさが優しく感じられる。
途中からスキー場のゲレンデに入り、県民の森公園センターを目指す。実はここが一番きつかった。というのも暖冬のため雪がなく、一歩一歩が膝に大きな負担となったからだ。転げ落ちたほうが早いのではと思いながら、やっとのことで下山できた。
このブログで紹介している史跡のほとんどは、それほど高い場所にはない。生活の営みの中で史跡はできるのだ。以前、標高1000mを越える山城を紹介したことがあるが、今回の標高はこれを大きく更新した。山高きが故に貴からず、神宿るを以て貴しと為す。
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