高みに登らねば見えないものがある。若い頃には自分なりの正義感に燃えて強く主張していたものだが、この年齢になるとよく分かる。あの人の立場、この人の立場。少しは視野が広がったのかな。
出世したら見えるものがあるのかもしれない。おそらく岸田首相は下々の者とは違う風景を見ていらっしゃるのだろう。ただ、逆に見えなくなってしまったものも多いのではないか。だからこそ聞く力が大切なのだが、近くのおじさんが「理屈じゃねえんだよ」と凄みを利かせるから、聞く余裕がないのかもしれない。
私もまた、高みを目指そう。赤門は無理だから赤い橋を渡って出発だ。
目指すは正面に構える台形の山、その左端が第一の目標だ。赤い橋の名は「天空橋」。なんでもない橋に見えるが、渡って振り返ると、アーチ橋をひっくり返したような構造が見える。
橋梁形式は上路式吊床版橋といい、吊橋と同じく吊構造で支えられている。以前の記事「何人の住むやを知らず浮島の砦に架かる夢の浮橋」でも紹介したことがある。近年は各地で見られるようになってきた。さあ、元気出して登ろう。
岡山県勝田郡奈義町高円に「大別当城跡」がある。
ここが今回歩いている中世の山城コース最大の絶景ポイントである。この日はくもりで遠くは霞んでいた。中世の武士たちもここから敵の動きを監視していたのだろう。説明板を読んでみよう。
大別当城跡(おおべっとうじょうせき)標高587m
大別当城跡は、大別当山の尾根伝いに残る中世の山城跡です。
南北に細長い山頂部に曲輪がいくつも並ぶ連郭式と呼ばれる構造で、堀切も確認できます。東西は急峻な斜面で、自然の地形を巧みに利用しています。
展望台からは、町内に残る山城をはじめ、津山市、美作市の山城も遠望でき、群雄割拠の緊張感を偲ばせる遺構です。
また、麓のイムラ遺跡(高円構)は、城主、家臣団の暮らした跡と伝わっています。
城主としては有元佐顕の名が伝わっている。まっすぐな尾根を歩いていると、街道を進んでいるかのような錯覚がする。
「防衛庁」という標柱がある。この尾根筋から西斜面側は自衛隊演習地となっている。山城を攻める演習に…利用されていない。谷の吊橋を渡って、さらに高い場所にある城に向かう。
同じく高円に「八巻城跡」がある。
南側は木が伐採され、絶景ポイントとして整備されている。たぶん眺めはいいはずだ。説明板が二つある。読んでみよう。
八巻城跡(はちまきじょうせき)標高741 m
八巻城跡は、なだらかな山頂の地形を利用した中世の山城跡です。いくつかの曲輪や堀切、井戸などが確認できます。
史実の多くは不明ですが、奈義町一帯を見渡せる眺望は、当時の戦略、防備の要だったことが考えられます。八巻城跡(はちまきじょうあと)
八巻城は、八巻山の山頂、標高七百四十米附近を主郭とし、その東にある菩提寺と連接し菩提寺城とも呼ばれた山城で、南西の尾根続きには大別当城がある。
主郭は、東西十米、南北約四十米。副郭は東西八米、南北十米。そして北東の尾根筋には深さ三米位の堀切りがあり、残る三方に十一の帯曲輪がある。
築城期は鎌倉時代ともいわれ、太平記に登場している。戦乱時の名残りか東の谷を血洗谷という。その後、宇喜多氏の美作支配後は廃城となった。
また、この八巻山はその昔、美しい女に化身して三穂太郎を産んだ大蛇が、故あって昔棲んでいた蛇淵に帰り、この山を八廻りも巻きしめ我が子との別れを嘆き悲しんだ山だと伝えられている。
城としては大別当城と同じ動きをしていたようだ。さらに進むと、北の尾根筋を断ち切る堀切がある。
この八巻城は地味に見えて、あの『太平記』に登場しているという。さっそく調べてみよう。
『太平記』巻第三十六「山名伊豆守落美作城事附菊池軍事」
十月十二日に、山名伊豆守時氏、嫡子右衛門佐師義、次男中務大輔、出雲、伯耆、因播、三箇国ノ勢三千余騎を率して、美作へ発向す。当国の守護赤松筑前入道世貞、播州に在て未戦前(いまだたゝかはざるさき)に、広戸掃部助、名木能仙二箇処の城、飯田の一族等が籠たる篠向城、菅家の一族が大見丈城(だいけんぢやうのしろ)、有元民部大夫入道が菩提寺城、小原孫次郞入道が小原城、大野の一族が籠たる大野城、六箇所の城は、一矢をも不射(いず)降参す。
時は康安元年(1361)、直冬方の山名氏は大挙して美作に進出した。守護の赤松氏は播磨にいて不在だったため、美作各地の城は次々の山名氏の手に落ちた。名木能仙二箇処の城、篠向城、大見丈城、菩提寺城、小原城、大野城という6か所の城は戦うことなく降伏したという。このうち大見丈城が八巻城とも大別当城とも言われている。両城をまとめて指しているのかもしれない。
城主は「菅家の一族」としている。菅家は美作の武士団菅家党で、その始祖伝承として三穂太郎が語り伝えられている。菅家党の勢力圏と三穂太郎の伝承地はけっこう重なるようだ。山を下りて那岐山の登山道に出て、最後の城に向かうとしよう。
同じく高円に「名木ノ城跡」がある。
細長くて平坦地が少ないので本当に城なのかと感じるが、南に突き出した尾根上にあるから、見通しがよいのかもしれない。説明板を読んでみよう。
名木ノ城跡(なぎのじょうせき)標高727m
名木ノ城跡は、険阻な地形を利用した中世の山城跡です。尾根を大きく断ち切って作られた堀切があり、そこから南にはいくつかの曲輪を備え、小規模ながら堅固な城の姿がよく残っています。
史実の多くは不明ですが、中世の争乱期の緊張を現代に伝える遺構です。
確かに堀切は深い。このような山深くにまで城を構えるとは、差し迫った状況があったのかもしれない。
先ほどの『太平記』では、名木ノ城は「名木能仙二箇処の城」に当たるようだ。適地を選んで峻険な城を築いた割には、あっさりと降伏している。なぜ戦わなかったのか。おそらく、プーチン大統領のために死にたくないとロシアの若者が思っているように、命を捨ててよいくらいの恩義を赤松氏に感じていなかったのだろう。