芭蕉といえばよく旅をしている印象が強いが、意外にも西国には来ていない。「詩歌の聖地(柿本人麻呂・前)」でレポートしたように、明石が最西端の足跡である。これに対して、芭蕉が尊敬する宗祇は、奥州のみならず九州にも旅している。本日は九州に行きがてら立ち寄った備中笠岡からのレポートである。
笠岡市笠岡の古城山公園に「宗祇休石」と「芭蕉鏡石」がある。
写真奥に見えるのが休石で「宗祇休石」と刻まれた標柱そのものが句碑であり、文化財としての価値がある。『笠岡ふるさとガイド』(2007年)によれば、右側面に「明応三甲寅四月来賓」、左側面に「山松能 可希や う起み類 夏の海」と記されているそうだ。説明板を読んでみよう。
休石
西国へくだり侍りし時、備中の国かさおかにて
「山松のかけやうきみる夏の海」
連歌師、宗祇は明応三年(一四九四)三月弟子の宗長、宗作を連れて山口へ向う途中、笠岡の陶山一族を訪ねて詠む
寛保二年(一七四二)三月江草南江が建立
宗祇は、守護大名で文化人のパトロンであった大内政弘のいる山口へ向かう途中に、備中笠岡に立ち寄った。ここには幕府の奉公衆を務めた陶山氏がいた。瀬戸の海に山の松影が映って海藻のように見える。ああ夏だな。「みる」は海藻の「海松(みる)」を掛けているのだろう。
来笠は明応三年(1594)とされているが、この句が文明十七年(1585)以前に成立した連歌句集『老葉(わくらば)』に収められており、西国に下ったのはもう少し前のことになる。調べると宗祇の紀行文『筑紫道記』に「文明十二の年水無月の初め、周防国山口といふ所に下りぬ。」とあるから、来笠はこの折だろう。西暦では1580年である。
この宗祇を慕って旅と作句を愛したのが芭蕉である。写真手前の丸い石を「鏡石」という。前出の『ふるさとガイド』によれば、「世の中盤 さら耳宗祇乃 やどり哉」と刻まれているらしい。説明板を読んでみよう。
芭蕉句碑
「世の中はさらに宗祇のやどりかな」(芭蕉笈日記)
安永八年(一七七九)三月
丸山株周が建立
別名「鏡石」と云う
ここに芭蕉が来たわけではない。安永の頃は芭蕉の偶像化が進み、各地に句碑が建立された。ほんとに世の中は宗祇が詠った「やどり」のようなもんだな。宗祇の休石があるから、宗祇を詠み込んだ句を碑にしたのだろう。
この句は各務支考編『笈日記』に収められているが、伊藤風国編『泊船集』で次のように指摘されている。
手づから雨の侘笠をはりて
世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉
此の句五文字を、世の中と笈日記にはしるされける、筆のあやまりなるべし。みなしぐりの頃也。
確かに宝井其角編『虚栗』では「世にふるも」となっているが、後半は「宗祇のやどり哉」である。「世の中は」と「世にふるも」、「しぐれ」と「やどり」で混乱している。『虚栗』の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」には季語がないが、冬に分類されている。どういうことだろうか。宗祇自身はどのように詠んでいるのだろう。連歌句集『萱草(わすれぐさ)』より
世にふるもさらに時雨のやどり哉
この世に生きるのも、にわか雨に借りる軒先のようなものだ。芭蕉の言う「宗祇のやどり」とは「時雨」であり、これを季語と見て冬の部に収めたのである。この句には元ネタ(本歌)がある。『新古今和歌集』に収められた二条院讃岐の歌だ。
世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな(590)
会いたい人には会えず、こんなに苦しい思いでいるのに、にわか雨はパタパタと音を立て、いとも簡単に通り過ぎていくのですね。二条院讃岐から宗祇へ、宗祇から芭蕉へと、内容が次第に抽象化している。最初は音を立てていた時雨が、雨ではなくて仮初の時を表すようになり、人生を仮の宿ととらえた宗祇の思想に昇華している。
備中笠岡にやってきたのは宗祇であって芭蕉ではない。しかし、地元の愛好家が二つの石碑を建立したおかげで、巨匠同士のつながりと作品の奥深さに触れることができた。ここは18世紀以来の文学公園なのである。