○此頃乞食等府下を横行すること雲霞の如くに相なり家々の傘足駄の類を盗掠すること甚しく寸暇も油断ならず諸家粥或は白水のとゞなどを煮て恵む者あり又家によりては戸口に閂の如く竹を横へて一切之を防ぐもあり
○梶川辺に行倒貧人あり母死して二人の小児其傍を離れず往来の人見るに忍びず食物を与へけるとぞ
『因府年表』続々編巻九 天保八丁酉年正月条
天保八年(1837)の鳥取城下のありさまである。格差社会だとか子どもの貧困だとか現代日本にも課題はあるが、ここまでの惨状を目にすることはない。いったい何があったのだろうか。
鳥取市丸山町の丸山町交差点に「天保の大飢饉供養塔」がある。「南無阿弥陀仏」と大きく刻まれている。
天保飢饉の供養塔は、以前に東京都板橋区や福井県福井市の例を紹介した。こうしてみると、被害が全国に及んでいることがよく分かる。鳥取のご城下は、どのような様子だったのだろう。手書きの説明板には次のように記されている。
南無阿弥陀仏
天保十四年四月建立 世話人鍛冶文七
天保の大飢饉供養塔と伝承されている。
天保七年(一八三六)を頂天とする大凶作は“申年のがしん”といわれた。子捨・乞食・疫病など悲惨を極め行き倒れた領内の死者は二万人を超えたと記録されている。
大飢饉が治まった天保十四年、兵庫県赤穂の町人、吉野家栄二郎が中心となり死者の冥福を祈るため建立されたと「因府年表」「在方諸事控」に詳述されている。
天保七年(1836)の干支は丙申(ひのえさる)。この年の作況を『因府年表』続々編巻九 天保七丙申年七月条は、次のように伝えている。
当年の作方植付前より霖雨土用に入り尚止まず半を過ぎ晴天四五日続きしが又南風吹つゞき夥しく蝗を生じ是を送るの音連夜絕へず盆前に冷雨降り盆中晴天暑気を催し稲葉存外の出来となる早稲穂を出す頃は相応に相見え農民さまで屈托もせざりしに其後又々涼気つよく湿雨ふり続き晚稲の穂を出すころに及で如何にしても穂の先延びず又物蔭水口或は山田などには一向に穂を出さゞる所あり農民大に愁色あり
宮沢賢治の言う「寒さの夏」、冷夏である。このために大飢饉が発生し、翌天保八年には冒頭のような悲惨な状況となった。『因府年表』続々編巻九 天保八丁酉年六月十五日条には次のように記されている。
後日因伯両国中の死人の員数御取調被仰付候へども莫大のことにて取査つかず凡貳萬人許なる可しとのこと也
冷夏となった天保七年が申年だったので「申年がしん」と呼ばれている。悲惨な飢饉など過去のことかと思ったら、アフリカ連合(AU)議長国セネガルのサル大統領が悲痛な声を上げている。ウクライナからの穀物輸出が再開されなければ「アフリカ大陸を破壊する深刻な飢饉となる」というのだ。冷夏はどうにもならないが、戦争は今すぐにでも止めることができる。