「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。」刑法第81条である。裏切り行為を禁じた規定だが、いまだかつて適用されたことがない。さすがにここまで大それた犯罪は今後もないだろう。
だが、外国を敵方、日本国を味方に置き換えると、戦国時代の我が国でよくあったことだ。死刑を恐れていては裏切りは出来ない。生き残るために裏切るのである。
備前市香登西と香登本の境の城山に「香登城跡」がある。
標識には「城山 287.5M」とある。美しいまでに平らな本丸だ。
本丸の南西斜面には石積みが見られる。
さらに下ると二の丸がある。ここを守備していたのが宇喜多直家の祖父能家(よしいえ)だ。このことは後に詳述する。
本丸から南東方向に延びた尾根には三の丸があり、四等三角点「城山」がある。
香登城跡を遠望しよう。右方の高地が本丸、その左方に三の丸があり、本丸の向こう側には二の丸がある。吉井川の下流域、備前の拠点福岡を見通すことができる要害である。この城の主は浦上宗久。以前の記事「中央政治決戦に臨んだ部将」で紹介した浦上村宗の弟にあたる。この兄弟、どうやら仲が良くないようだ。『備前軍記』巻第二「浦上宗久小塩へ内通附八塔寺炎上の事」を読んでみよう。
永正十六年正月村宗三石城に楯籠り居たれ共、去年小塩勢敗軍の後は政村再び攻寄るべき勢もなく、いたづらに日を送りけるが、村宗が弟浦上宗久和気郡香々登の城にありて西方の防御せしが、小塩より潜に使を立て宗久をかたらい、味方に来らば村宗の知行を残らず宗久に宛行ふべしと言やりけるに、宗久欲心ふかき者なれば、早速領掌して、隙を窺ひ小塩とはかり合て三石を可討とは思ひながら、顔色に出さずしてありしに、香々登の城の二郭を守て居ける宇喜多和泉守、此密事を聞出して二郭を弥堅固に持て本丸の方を厳しく用心し、三石へ使を立て宗久密謀ある事を委しく告やりしかば、早速加勢来て本丸を攻べき手立をせしかば、宗久叶がたく夜に紛れて城を忍び出て備中へ落行ける。其跡の本丸には三石より来りし加勢の兵を籠めて守らせける。宇喜多能家は謀にて事なく城を取り固め、宗久が跡を能家かはりて城を守りける。
永正十六年とは1519年。将軍家も管領家もぐだぐだの争いを続けていた。名族赤松家の当主赤松義村は重臣浦上村宗と対立する。この時、義村は置塩城、村宗は三石城、村宗の弟宗久は香登城にいた。そこへ置塩から香登にやって来た使者が「味方になったら兄の知行をすべてくれてやろう」と誘ったのである。
宗久は本当に欲深かったのか主君への忠義心からか兄を討とうと考え始めた。これを察知したのが浦上の重臣で香登城二の丸を守備していた宇喜多能家である。宗久の裏切りを村宗に注進し守りを固めた。三石城からの軍勢が本丸を攻めようとすると、宗久は抵抗をあきらめ城を落ちて行ったという。
ところが岡山県では有名な戦国ポートレート「宇喜多能家寿像賛」には、次のように記されている。寿像に記された賛だから軍記よりも信憑性がある。
十六年、村宗舎弟宗久在香々登塁、与阿兄絶矣、能家在彼焉、乃通書告諭乎村宗而曰、臣若出塁則必有事矣、一夕脱而往備西県矣
永正十六年、浦上村宗の弟宗久は香登城にいたが、兄とは関係を絶っていた。宇喜多能家は宗久のもとにいたが、村宗に「私が城を出たら必ず有事となるでしょう」と書状で告げ、ある夕方に城を脱出し備前西部へ向かった。松田氏に援軍を要請し、赤松氏が包囲する三石城を救援しようとしたのである。
したがって浦上宗久は香登城にしばらくとどまっていたのが真相のようだが、主君である赤松義村は浦上村宗との抗争に敗れ、大永元年(1521)に殺害されてしまう。宗久も同じ頃に粛清されたのであろう。こうして浦上氏は赤松氏に対する下剋上を成功させる。ところが次の世代になって浦上氏は宇喜多氏の下剋上によって滅亡することとなる。
これが戦国の世なのだが、宗久は陰謀渦巻くどろどろの生き方が嫌いだったのだろう。斜陽となった主家を支えることこそ家臣の役目と考えていたのかもしれない。香登城にぽつんと取り残された宗久は吉井川の流れを見て、本当に変わらないものとは何かと問うていたに違いない。
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