神聖ローマ帝国では、国境防衛の任務に当たった諸侯に「辺境伯」という官職が与えられた。ブランデンブルク辺境伯領が有名で、支配者ホーエンツォレルン家はやがてドイツ皇帝となり、辺境伯領の一部であったベルリンは辺境どころか、ヨーロッパの中心の一つに発展している。
話はいきなり小さくなるが、岡山藩にも国境防衛の任務に当たった家老が6家あった。虫明、天城、周匝、金川、建部、佐伯に陣屋がおかれ、藩主家一門や譜代の家臣によって治められていた。
平成の大合併前の自治体名では、邑久町、倉敷市、吉井町、御津町、建部町、佐伯町に位置し、さすがに岡山市の周辺部というイメージだった。現在の自治体では、瀬戸内市、倉敷市、赤磐市、岡山市、岡山市、和気町となり、岡山藩の旧領回復を意図したかのように岡山市が北方に進出した形となっている。
岡山市北区建部町富沢に「阿光山建部池田家墓所」がある。旧建部町指定の史跡であった。
曹源寺の岡山藩主池田家墓所は岡山市指定史跡だが、家老の池田家墓所は荒れ気味である。近代国家が文化財の身分格差を放置してはならない。この史跡の意義を地元建部町教育委員会が発行した『たけべの文化財』改訂版に解説してもらおう。
富沢の阿光山の山上に、岡山藩の国老建部池田(森寺)家の墓所がある。この山は岡山藩の留山(直轄地)で、建部池田6代宗春の代に浄地と定め、以後8代俊清、9代博道の3人が葬られている。年代は没年で貞享2年(1685)から文化9年(1812)までの127年間で、1基ごとに石柵で囲まれた墓域の中央に立派な石塔が建てられ、近世に建部を支配した国老の権威が偲ばれる。
建部の地を治めたのは森寺池田家で、池田家の家臣森寺秀勝を初代とする。二代忠勝が嗣子無く没したのちに、池田輝政の弟長吉の子である長貞が養子となって家督を相続した。しかし長貞が若くして亡くなったため、慶長十二年(1607)に弟長政が四代目として跡を継いだ。元和三年(1617)に藩主光政の鳥取移封に伴って伯耆黒坂へ移り、寛永九年(1632)の備前国替えに伴って備前建部で陣屋を構えた。長政の代に姓を池田に戻したので森寺池田家と呼ばれる。幕末まで十四代続き、明治になって男爵を授けられた。
阿光山には三基の墓碑がある。正面(写真上)が六代宗春、「備前国老池田氏隼人宗春之墓」と刻まれている。若くして亡くなったようだ。右側(写真中)は八代俊清、「緫持院前布護署徳叟良功居士」と刻まれている。布護署とは隼人司の唐名である。豊川市御津町西方松本(みとちょうにしがたまつもと)の忠勝寺に「森寺忠勝の墓」がある。これは元文五年(1740)に池田隼人俊清が、この地で没した先祖を悼んで建てたものだ。俊清が亡くなったのは明和二年(1765)。
左側(写真下)は九代博道、「等覚院殿前布護署凛山宗威居士」と刻まれている。やはり隼人と名乗っていた。御津郡中田村の別邸に学問所を設立し、家中子弟の文武修練の場を提供した。『岡山県教育史』上巻には次のように記されている。
中田学問所ハ寛政十年池田隼人博道家臣瀧野善左衛門外三名二命ジテ之ヲ設立セシム。単二塾ト称シ別二名称附セズ、爾來連綿其ノ成規ヲ遵守シ、文化中栄馬方智二至ツテ更二美作人近藤見暢ナルモノヲ延テ教師トナシ諸規則更張シ、天保年間刑部博忠再ビ職員ヲ改選シ以テ教学ヲ振起ス。創建以来時々盛衰ナキ能ハズト雖モ、維持シテ維新時二至ル。職員ニ目附役、締役、文学教授、習字師、算術師、各武技教員、会計書記等アリ。其人員ハ時々増減アリト雖モ、概二十人余ヲ定限トス。家禄ノ外ニ職俸或ハ給金付ス。(旧備前藩学制取調書)
寛政十年は1798年。前年に昌平坂学問所が設立されるほど、学問熱が全国的に高まっていた時期である。
岡山市北区建部町中田に移築された「建部陣屋大手門」がある。
陣屋はすっかり失われて田んぼとなり、この大手門が面影を伝える唯一の遺構である。近くには鍵の手というクランク状の道があり、落ち着いた雰囲気の町並みが残っている。
地方創生と言われながら、東京一極集中が進むばかりである。道州制も首都移転もさっぱり話題にならなくなった。どうすれば地方分権は実現するのか。王政復古が中央集権化であったなら、地方分権は藩政復古だろうか。封建社会に何かヒントはないのだろうか。