ジョージア(かつてのグルジア)にカツキの柱(Katskhi pillar)という岩があり、その上に教会が建てられている。天国に一番近い教会と呼ばれているそうだ。建てにくい場所に建てる。合理性に欠ける行為がなぜ行われるのか。以前に「三徳山投入堂」や「不動産岩屋堂」など、崖に建築された寺院を紹介したことがある。
平地には余裕がなくて、やむにやまれず斜面に建てたのだろうか。いや、敢為という言葉があるではないか。敢えて為す。道を求めるものは困難に屈しない。本日は本ブログで鳥取県3例目となる懸造建築の紹介である。
倉吉市仲ノ町に「長谷寺本堂」がある。県指定保護文化財である。鳥取県では国重文に次ぐ有形文化財が「保護文化財」として指定されるようだ。
それほど信心深くはないのだが、このお堂では手を合わせ頭を垂れることが自然にできる。初めてなのに懐かしい心安らぐ空間が、そこにある。詳しい説明板があるので読んでみよう。
県指定保護文化財
長谷寺本堂及び仁王門
指定年月日 平成十九年四月二十七日
長谷寺は山号を打吹山、本尊を十一面観音菩薩像とする天台宗寺院で、伯耆三十三番札所、中国観音霊場の一つ。寺の縁起によれば、奈良時代の養老五年(七二一年)に創建され、法道上人を開基とする。また「伯耆民談記」では、はじめ長谷(ながたに)村(倉吉市北谷地区)に建てられたが、後に都志都古により現在の地に移されたとされる。
本堂は天正年間(一五七三年~一五九一年)に造営された後、幾度かの改変を経て、江戸後期に現在見られる形になったと考えられる。現在確認できる建築部材は不完全な部分が多く、当初の造営は建築途中で中断された可能性もある。
本堂は寄棟(よせむね)造、南にせり出した懸造(かけづくり)で、五間四方の平面に南・西の二面に縁(えん)が付き、六間四方の平面を示す。間口三間奥行二間の内陣内には重要文化財の厨子を須弥壇(しゅみだん)上に造りつける。間口五間奥行二間の外陣(げじん)の他、内陣両側面に脇陣、背面に後陣と分ける中世仏堂の典型的な平面を持つ。現在は、両脇陣と後陣を合わせて絵馬堂となっている。
仁王門は延宝八年(一六八〇年)の造営とされる。柱間三間の中央間を通り抜けとする三間一戸八脚門、入母屋造で、奥行二間を虹梁と小壁で前後二室に分け、中には仁王像を安置する。
本堂は、県内で中世に遡ることのできる数少ない建造物であり、歴史的価値の高いものである。また仁王門においては屋根材を除き後世の大きな改造も無く、一七世紀の姿を伝える貴重な建造物である。
平成二十年三月 鳥取県教育委員会
天正年間といえば、地方大会を勝ち抜いた戦国大名が全国レベルでぶつかり合った時代である。平和を祈念して建造されたのか、人心掌握のために大名が寄進したのか。
戦乱に巻き込まれることなく今に伝えられた文化財。戦時下にあるウクライナには「キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院」という世界文化遺産があるが、どのようになっているのだろう。京都の文化財を守るために米軍は空襲を避けたという誤解もある。人命をかくも軽視する戦争が、古い建物への攻撃を避けるとは思えない。
自然災害、長年の風雨に耐えてきた保護文化財を戦争から守らねばならない。今すぐ砲撃をやめて神のもとに参集せよ。手を合わせ頭を垂れるのだ。私たちは守り守られる存在なのである。
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