助けを求めに行って断られたら、どんなにつらいことだろうか。正保三年(1646)に、清の侵攻に苦しむ南明の鄭芝龍が我が国に援軍を求めた時、御三家の面々は出兵に賛成し、自ら大陸に渡ることを願ったが、重鎮の井伊直孝が無益だと強く主張し、請援拒否の結論に至ったという。
もし派兵していれば、我が国は漢民族の朋友として認知され、その後の不幸な歴史もなかったかもしれない。とは考え過ぎだろうが、共に戦うことで民族の紐帯が生まれることは確かだ。とはいえ、味方するかしないかは義理人情ではなく損得の問題だから、江戸期の平和を思えば結果的には直孝の主張は正しかった。
岡山県苫田郡鏡野町馬場に町指定史跡の「小田草城址」がある。日中関係にはまったく関係ない。
さすがに山城は攻めるのが大変だ、と当たり前のことを登りながら考える。見晴らしのよさに山城の意義があるというが、この小田草城はどうだろうか。南が開けているので写真を撮った。
天上も地上も白く、これはこれで趣があるが、立地条件の良さを見てとることはできない。そこでネット地図の航空写真で確認すると、この城が中国山地と津山盆地の境に位置していることが分かる。伯耆と美作を結ぶ陰陽連絡の要衝ということができよう。登山口にある説明板を読んでみよう。
小田草城は、標高三九〇メートルの小田草山に築かれた山城である。築城の時期は、明らかではないが、山麓の小田草神社の梵鐘銘に「貞治七年(一三六四)三月廿四日小田草城主斎藤二郎」とあり、それ以前に築城され、斎藤氏の居城であったことがうかがわれる。
天文十三年(一五四四)出雲の富田城主尼子晴久が美作を侵攻した際、小田草城主斎藤玄蕃は、高田城・岩屋城・井の内城とともに尼子の属将となる。
永禄八年(一五六五)富田城が毛利氏に包囲された時には、尼子義久の援軍の、求めに応じなかった。
(この時の使者平野又右衛門自害の話が伝わっている。)
その後、永禄十二年(一五六九)には、また、尼子氏に従って参戦したが、尼子氏が敗れ〔天正六年(一五七八)〕たことにより、斎藤氏は、当時、美作における毛利氏の対抗勢力であった宇喜多氏に属することとなった。
この城は、南北に延びる尾根上に築かれており、今も空堀や土塁が残り、曲輪もはっきりしている。井戸跡もあり、麓を中心にして城址にちなんだ地名も多く残っている。
(鏡野町の文化財 鏡野町の遺跡調査)
平成十二年三月 鏡野町教育委員会
説明板の近くにその「梵鐘」はあった。町指定工芸品である。延宝五年(1677)に土中から発見されたという。
梵鐘には、次のような銘文が刻まれている。
美作国野介庄 小田草大明神 全天長地久 御願円満 庄内安穏 万民与楽御志為也
貞治七年三月廿四日 小田草城主斎藤二郎
野介(のげ)庄は平安期の『和名抄』に掲載される「苫西郡能鶏(のけ)郷」の遺称と考えられている。斎藤氏は南北朝から安土桃山期まで、この地域に勢力を有する国人領主だった。「貞治」は北朝の年号だから、斎藤二郎は主流派に属していたのだろう。
小田草神社の参道下に「お前返し」と刻まれた碑がある。
斎藤氏は尼子氏の美作進出とともにこれに臣従していたが、尼子晴久の卒去(永禄三年)後には毛利氏に従うようになった。晴久の後継義久は本拠の月山富田城が毛利軍に包囲されると、小田草城の斎藤玄蕃に援軍要請をしたようだ。永禄八年(1565)のことである。裏の碑文を読んでみよう。
戦国時代に小田草城へ援軍の依頼に来た、尼子氏の武将平野又右衛門が返事を得られず自害するが、このことを報告させるため、従者を返した所。
平野又右衛門の自害については『陰徳太平記』巻之三十九「平野又右衛門自害之事」に詳しい。関係部分を読んでみよう。主従四人で小田草城にやって来た平野又右衛門久利は、すぐさま従者一人を城内に遣わすが、明朝にお越しください、との返事であった。ああこれは我らを討たんとするはかりごとだな、と察した平野は、明くる朝覚悟を決めて城へ向かった。すると案の定、大勢の兵が待ち構えていた。
久利是を見て少も不騒あら事々しの御待設けや候、我爰にて命を際に戦なば、面々数百人などは、一人も不残討取三途の道友達と成すべきにて候へ共、暫愚案を廻すに、只今切死仕候はゞ、久利如何に云成して如此討れつらんと、富田の者共の可申事の口惜候、暫待給へ、国本へ云々の趣申遣し、其後自害可仕にて候と云ければ、斎藤櫓の上より、所承尤至極せり、皆静まり候へと下知をなす、久利即硯料紙を乞ひ有りし形象(ありさま)委細に書記し、郎党一人本国へ返しけり、
平野又右衛門はこれを見て少しも騒がず「ああ、ずいぶんと仰々しいお出迎えですな。我らがここで命がけで戦えば、あなたがた数百人くらいは一人も残らず討ち取って、三途の川を渡る道連れにでもできるのだが、少々考えてみれば、今死んでしまえば、平野はよく分からんが討たれたそうな、と尼子家中に噂されるのが悔しゅうござる。しばしお待ちを。国元へ事情を報告させ、その後に自害させていただこう。」と言った。
斎藤玄蕃は櫓の上から「貴殿が仰ることはもっともなことだ。みなのもの、静まれ!」と命令すれば、平野は硯と紙を所望し、事のありさまを詳細に書き記して、従者一人に国元へ持ち帰らせた。
平野の尽力空しく、永禄九年(1566)に尼子の命運は尽きることとなり、中国一帯は毛利の支配下となる。しかしながら、斎藤玄蕃はこれで安住の地を得たわけではない。日本歴史地名大系34『岡山県の地名』(平凡社)には、次のように記されている。
「美作古城史」によれば、尼子勝久の勢力が回復すると再び尼子氏に従い、天正六年(一五七八)勝久が滅亡すると宇喜多氏の麾下に属し、翌年毛利氏・宇喜多氏の連携が破れると、同十年斎藤玄蕃助親実(近実)らは西屋城(現奥津町)を守って毛利軍と対戦して落城し、後年岩尾城に拠った。
美作国人斎藤氏は尼子、毛利、宇喜多を渡り歩き、戦国の世を生きた。平野又右衛門には無念の思いをさせてしまったが、これも世の習い。情にほだされて尼子についたならば、ともに毛利に滅ぼされたであろう。非情な決断も生きる力の一つなのだ。