城は山城→平山城・平城と変遷した。山城は戦時に立て籠もる砦だが、平山城や平城は領国支配の拠点であり周囲に城下町が整備された。平山城の代表例は姫路城、彦根城、松江城、犬山城などで、いずれも天下の名城として国宝に指定されている。本日紹介するのも平山城なのだが…。
津山市市場に「本丸城跡」がある。市指定史跡である。
ちょっとした山の中にあるが、立て籠もるほどの山城ではない。説明板がなければ、誰も史跡だと思わないだろう。何が書いてあるのか読んでみよう。
天文二年(一五三三)国人の広戸弾正広家は、矢櫃城において尼子経久の軍に敗れ自刃。嫡男新三郎広義は捕えられ出雲に送られたが、天文年間の末本領を認められて帰国、本丸城を築き旧臣を集めて一家を再興する。城跡は井戸・築地が残り西方から眺めれば、小規模ながら中世の平山城の姿をとどめている。
すぐ近くに津山市立広戸小学校がある。ここは広戸氏の本拠地なのだ。ここから北方の広戸仙方面に矢櫃城とその詰めの砦である爪ヶ城がある。広戸広家が矢櫃城に滅び、しばらくして嫡男広義が本領に復帰して本丸城を築いた。すぐ北の河原山(かわはらやま)城、すぐ北東の国司尾(くにしお)館跡と一体的に城館を形成していたのだろう。西方からの眺めを確認しておこう。
確かにこちらの方が雰囲気がある。当主の広義は天正十五年(1587)、秀吉の九州攻めに宇喜多氏配下として従軍し、日向国の耳川で溺死したと伝えられている。無事に帰還し平和な世を迎えておれば、本丸城の周辺に城下町を築いていただろうか。中世の平山城から美作国人の興亡が垣間見える。
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