宮本武蔵の生誕地争いは傍から見ているとおもしろい。自身が書いた『五輪書』に「生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信」と記しているので争う余地がなさそうに見えるが、播磨説を凌駕しているのが美作説である。吉川英治が小説で採用したことから台頭し、行政の観光キャンペーンにより大成した。あるイメージが多くの人に形成されると、それは歴史的事実とされてしまうが、必ずしも真実とは限らない。今日は、控えめながら有力な播磨国宮本村説を訪ねることとしよう。
兵庫県揖保郡太子町宮本の石海(せっかい)神社前の公園に「宮本武蔵生誕之地」と刻まれた記念碑が建つ。揮毫は旧龍野藩主脇坂家15代の脇坂研之氏である。宮本村は龍野藩領であった。ここは藩公認の生誕地なのだ。
生誕地に欠かせない史跡が「産湯井戸」である。現地説明板には「今は涸れて当時の面水はないが、この井戸で汲まれた水で生まれて初めて入湯したのである」と記されている。
「生家跡」も特定できると史跡の価値が高まる。板看板に「宮本武蔵生誕屋敷跡」と示されている。隣の石碑には「宮本児童公園」とあるが、なぜか畑の中にある。
さらに、現地で武蔵を見たという証人がいると完璧だ。
現地説明板に教えてもらおう。
逆さ椋の由来
此の椋の木は、樹齢数百年(推測五百年程度〉と伝えられている。今から、二百五十年程前の宝暦年間と明治二十年の二回の大火で村の大半が焼失した。その時、この椋の木も地面より三・五米を残し、無残な姿と化したが「根っこ」が強力で生きのびた。
その後、長い年月を経て、少しずつ新しい芽を吹き出した。
昭和五十年〈一九七五〉に、地域の住民によって補強・活性剤等を施し、今日まで見守られている。現在では、根っこに負けない位の立派な枝振りを見せている。
宮本武蔵の実状を知るのは、此の椋の大木である。
宮本武蔵顕彰会
で、「逆さ」の由来は?と聞きたくもなるのだが、火災にも耐えた武蔵を知る生き証人だということで敬意を表しておこう。
武蔵生誕地論争において播磨説には米田村(高砂市)説もあり、神社の古い棟札〈1653年〉を物証としている。武蔵が養子とした宮本伊織〈小笠原氏家老〉が奉納したもので、「作州之顕氏新免者天正之間無嗣而卒于筑前秋月城受遺承家曰武蔵掾玄信後改氏宮本亦無子而以余為義子故余今称其氏」(美作の新免氏が子のないまま筑前秋月城で亡くなったので武蔵掾玄信が跡を継ぎ、後に宮本と氏を改めた。武蔵もまた子がなかったので私を養子とした。だから私は今でもその氏を名乗っている)と記されている。しかし、武蔵の出生地が明記されているわけではない。
これに対し、宮本村説の根拠はどうなのだろう。江戸中期の地誌『播磨鑑』〈1719~62年〉附録人物門武之部の記述を読んでみよう。
宮本武蔵 揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産也 若年ヨリ兵術ヲ好ミ諸国ヲ修行シ天下ニカクレナク則武蔵流ト云テ諸士ニ門人多シ 然レトモ不仕諸侯 到明石小笠原右近将監侯ニ謁見シ其時伊織ヲ養子トシ 其後小笠原侯豊前小倉ニ赴キ玉フトキ同伴シ 養子伊織ニ五千石ヲ賜ハリテ大老職ニ仕官ス 今ニ其子孫三千石ニテ家老職ト云 此宮本武蔵コト佐用郡平福ノ住風水翁ノ説ト有相違別書ニ記之
宮本伊織 印南郡米田村ノ産也 宮本武蔵養子トス 旧跡ノ部ニ委ク記ス
武蔵も伊織も出生地が明記されている。さらに、伊織が詳述されているという「旧跡ノ部」のうち、武蔵との関係部分のみ抜粋しよう。
其後伊織十六歳の時赤石の御城主小笠原右近侯に宮本武蔵と云天下無双の兵術者を召抱へられ客分にておはせしか此伊織其家に召遣はれ居たりし処に器量すくれたる生れ付故武蔵養子にせられ後豊前小倉へ御所替にて御供し下られける時折節しま原一揆蜂起の節彼戦場へ召連られ軍功有其賞として三千石を賜はり無役にて小笠原家に被仕其後宮本伊織とて家老職になさる
『播磨鑑』の著者・平野庸脩(つねなが)は、伊織の生まれた米田村近くの平津村の人であり、百年の時を経ても武蔵と伊織の出生地については確かな情報を持っていたはずだ。伊織をここまで詳しく書くのだから、武蔵が米田村で生れたのならそう書いただろう。
郷土の雑誌『バンカル』2003年冬号〈特集:宮本武蔵の真実〉は、吉川英治がここ宮本村を訪れた時のエピソードを伝えている。
吉川英治が小説を書く以前に、神社総代だった家を三度も訪れたと聞いた。「武蔵の誕生地はここに間違いない」と言ったが、武蔵に関心のなかった総代は吉川を追い返したという話も残っている。
やはり、宮本村が最有力ということか。椋の木だけが知っている。