源頼朝に父義朝の髑髏を示して挙兵を迫る。仏に仕える身にして豪胆無比。恋愛に殺人。物語性を備えた人物像は人をして魅了せずにはおかない。その豪僧の名は文覚である。
兵庫県揖保郡太子町原の福井大池のほとりに「文覚上人腰掛石」がある。
濃厚なキャラの文覚が、播磨の穏やかなため池に登場するとは唐突なようだが、調べてみると中世らしいドラマが見えてきた。『姫路市史第八巻史料編古代中世1』に掲載されている史料を読んでみよう。
年未詳六月 文覚、福井庄用水の件で、隣庄橘判官と争う
文覚書状案 神護寺文書
橘判官殿ハ 君の御いとをしみの人にておはしまし候へハ、あにおととゝも、おやともたのみまいらせて候に、あにか妻をまきとりて候へハ、おやをまく定そと、ゐなかせかいにも申候しニ、君の御いとおしみおはしまさん人ハ、よもさはおはしまさしとおもひ候しかとも、たゝいまは一定さ候けりとおほへ候なり、播磨国大田御庄と申候ハ 君の御領に候、高雄御庄ニ福井荘も 君の御領には候はすや、大田御庄の内、池の候ハ、福井御庄の田をやしないて、四百余歳ニなりて候を、件の池をほして、わつかに田四、五丁つくらんとて、福井庄の田百七十余丁干損候ハ、これハ橘判官殿御道理ニて候か、御庄園をしろしめさんとする人の御訴には候はすや、一日路をも人の御領の中をもほりかけて、水をとる事ハつねのならひに候、わつかに田四、五丁をつくらんとて、福井庄の田百七十余丁をうしなはれて、高雄をもつくり候ましきは、これハよき事に候か、
あにか妻をまきとりけるもことわりや福井の水をぬすむとおもへハ
このよし、御所ニ申上てたひおはしませ、貴殿ハいゑの子にておはしませは、申上てたひおはしましなんとおもひ候て、申候に候、
六月十八日 文覚
馬権頭殿
福井荘は姫路市勝原区から網干区にかけて広がる荘園で神護寺領であった。神護寺の復興を発願していた文覚にとって、後白河院から寄進されたこの広い荘園は貴重な財源である。一方、福井大池は福井荘の水源だが、北隣の後白河院領大田荘内にある。大田荘の荘官は橘左衛門尉定康というが、彼が池を干拓して田に変えようとした。そのことに文覚は怒りを爆発させているのだ。我訳してみた。
橘判官殿は後白河院のお気に入りでいらっしゃるから兄弟とも親とも信頼してきましたのに、兄の妻を奪うのだから、そのうち親も追い出してしまうに決まっていると世間ではうわさしています。院と関係ない人は、まさかそんなことはあるまいと考えていましたが、今ではそうかも知れないと思っております。播磨国大田荘といえば院の御領で、神護寺領になった福井荘も元は院の御領ではないでしょうか。大田荘内の池が福井荘の田をうるおして四百年余りになりますが、この池を干拓してわずか四、五町の田をつくろうとして、福井荘の百七十町余りの田を干上がらせてしまうのは、これは橘判官殿には当然のことなのでしょうか、荘園を支配なさろうとする方の訴えではないでしょうか。一日行程ほど離れた他領の中を掘って水を引くことはよくあることです。わずかに四、五町の田をつくろうとして福井荘の百七十町余りの田が失われ、神護寺を復興できなくなるのは、これはよいことでしょうか。
兄さんの嫁さん盗るのも当たり前 福井の水を盗むんだから
このことを御所に申し上げてください。貴殿は御家来でいらっしゃるので申し上げてくださると思い申しました。
この泥棒めが!というところだが、神護寺の利益を守ろうとする文覚の強い意志がよく伝わってくる。この書状にはもう一つ大切なことがある。「大田御庄の内、池の候ハ、福井御庄の田をやしないて、四百余歳ニなりて候」ということは、福井大池は鎌倉初期においてすでに400年以上の歴史を有していたということだ。『続日本紀』巻第廿五の天平宝字八年八月の条に次の記述が見られる。
己夘。遣使築池於大和。河内。山背。近江。丹波。播磨。譛岐等國。
天平宝字8年は764年に相当するので、福井大池もこの時築かれたのかもしれない。この穏やかな池は、播磨の開拓史に記されるべきため池であるとともに、中世の一所懸命とは何かを分かりやすく示すエピソードを伝える貴重な場所だ。文覚上人腰掛岩は後付けの単なる伝承ではなく、上人が本当にこの池を見に来ていたことを伝えているのかもしれない。
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