それにしてもヘイケガニの甲羅の模様はよくできている。これは伝説を生まずにはおかない。平家の怨念を表しているという。異名を「武文蟹(たけぶんがに)」ともいい、こちらは南朝の忠臣・秦武文(はたのたけぶん)の生まれ変わりだという。同様な命名で「島村蟹」というのがある。島村蟹ゆかりの城を訪ねよう。
瀬戸内市邑久町東谷と岡山市東区長沼の境界に「高取山城跡」がある。山は163mで頂上の広い平坦地が本丸である。
この城は地元の方の手で整備され、特に二の丸からの眺望がよい。写真は千町平野と呼ばれる穀倉地帯であり、右下に写る山には砥石城があった。砥石城は、後に岡山に城下町を築き備前を支配した戦国大名、宇喜多直家が生まれ育った城である。
宇喜多直家が浦上氏配下の有力国人に過ぎなかった頃のことである。永禄2年(1559)、直家は高取山城の島村豊後守宗政を謀殺し祖父の仇を討った。というのも、天文3年(1534)、砥石城は島村豊後守に急襲され、直家の祖父・能家は自刃、6歳の直家は父・興家に連れられ落ち延びていたのだ。
その島村豊後守の父は島村弾正左衛門貴則といい、享禄4年(1531)の大物崩れという細川家の内訌に主君の浦上村宗とともにはるばる参戦し討死した武将である。居城は高取山城である。島村弾正の最期を『備前軍記』の現代語訳〈山陽新聞社刊〉で紹介しよう。
また島村弾正左衛門貴則も、主君村宗をはじめ備前勢が大勢討たれたことを悔しく思い、無念の歯がみして立っていた。そこへ晴元方の佐田岡平治・吉村十郎の二人が討ちかかった。貴則はこれを引き寄せて左右の脇に抱きかかえ、
「汝ら冥土の旅の供をせよ」
と叫んで野里川に身を躍らせて果てた。
注 伝説によると、この島村貴則は亡霊となって蟹に化したという。現実にこの時から、この辺りに甲羅が人間の顔に似た蟹が現れるようになった。現在摂津の野里川で島村蟹というのがそれである。
ということは、島村蟹とは宇喜多直家の祖父の仇の父の怨霊である。そして高取山城は島村蟹の居城である。本当にそんなことがあったのだろうか、そう思わせるくらい今は昔の物語である。
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