先日、安土駅前の織田信長像をレポートした。そりゃそうだろう。安土といえば信長だ。駅前に像として立つのは、その町が誇りにしている人物である。
本日は津山駅前の像に注目したい。ここでは城下町津山を開府した森忠政(蘭丸の弟)ではなく、幕末の洋学者が町の顔である。
津山市大谷のJR津山駅前に「箕作阮甫(みつくりげんぽ)像」がある。後ろに掲揚されている右の旗は津山の市章で、剣大とい津山藩主松平家の合印が元になっているそうだ。阮甫が仕えたのも松平家である。
津山は優れた洋学者を輩出している。宇田川玄随(うだがわげんずい)と箕作元甫は、その双璧をなしている。元甫は玄随の養子玄真(げんしん)に学んでいる。詳しいことを説明板で読んでみよう。
この像は、西洋の学問を志した阮甫が、文政六年、藩主に随行して初めて江戸へ旅立とうとする、立志の姿である。 幕末を代表する蘭学者箕作阮甫は、津山藩医箕作貞固(ていこ)の三男として西新町に生まれた。文政二年(一八一九)津山藩医となる。 文政六年(一八二三)藩主の参勤交代に従い江戸に出て、蘭学の大家であった同藩医宇田川玄真に入門。 天保十年(一八三九)から、幕末天文方で外国文書の翻訳に従事する。 嘉永六年(一八五三)、ペリー来航時には、幕命によりアメリカ合衆国大統領の国書を江戸城に登って翻訳した。また同年来航したロシア使節プチャーチンとの応接のため長崎に赴くとともに、翌年の伊豆下田での交渉にもたずさわっている。 安政三年(一八五六)、幕府は蕃書調書(ばんしょしらべしょ)<東京大学の前身>を創設、阮甫は首席教授職<今の総長格>に任命され、その基礎を確立する。また、日本最初の医学雑誌「泰西名医彙講(たいせいめいいいこう)」をはじめ「外科必読」・「産科簡明」、語学では「和蘭(オランダ)文典」・「改正増補蛮語箋(ばんごせん)」、西洋地誌では「八紘通誌(はっこうつうし)」・「地球説略」など、その生涯で九九部一六〇余冊の著訳書を残した。 阮甫の子孫からは箕作省吾、箕作秋坪(しゅうへい)、箕作麟祥(あきよし)、呉文聡(くれあやとし)、呉秀三、箕作奎吾(けいご)、菊池大麓(だいろく)、箕作佳吉(かきち)、箕作元八(げんぱち)など、幕末から明治期の日本近代化を支えたそうそうたる学者が輩出している。
箕作省吾は地理学者、箕作秋坪は啓蒙思想家、箕作麟祥は法学者、呉文聡は統計学者、呉秀三は精神医学者、箕作奎吾は教育者、菊池大麓は数学者、箕作佳吉は動物学者、箕作元八は歴史学者である。まさに、そうそうたる学者群である。
彼らの祖が箕作阮甫である。阮甫は学者としての実績のみならず、外交の重要な局面に立ち会っていることが注目される。
ペリーの来航は日本史の画期をなす出来事であった。米国フィルモア大統領の国書によって、「開国せよ」とのアメリカの意思が日本に伝えられた。長年続けられてきた鎖国が、この手紙によって解かれることとなる。
与が志、二国の民をして交易を行ハしめんと欲す。是を以て日本の利益となし、亦兼て合衆国の利益となさんことを欲してなり。貴国従来の制度、支那人及び和蘭人を除くの外ハ、外邦と交易することを禁ずるハ、固より予が知る所なり。然れども、世界中時勢の変換に随ひ、改革の新政行ハるゝの当ては、其時に随ひて新律を定むるを智と称すべし。
もちろん原文は英文である。ペリーはこれを漢訳したものとオランダ語訳したものとを付して日本側に渡した。嘉永六年六月九日(1853年7月14日)、久里浜(現横須賀市)でのことである。
漢訳したのは中国で出版活動をしていたサミュエル・ウィリアムズである。この漢訳版国書は林大学頭(10代壮軒)によって和訳され、老中阿部正弘によって諸侯に回覧されることとなる。
オランダ語訳はオランダ生まれのアントン・ポートマンによる。この蘭訳版国書を和訳した人物こそ、箕作阮甫であった。天文方の同僚である杉田成卿(すぎたせいけい)と協力しての作業である。成卿は有名な玄白の孫にあたる。
上記の引用は蘭訳版国書からの和訳である。さすがは翻訳のプロフェッショナル。現代人が読んでも分かりやすい。アメリカの言い分はもっともに思える。
訳した阮甫たちはどう思ったのだろうか。衝撃を受けたのだろうか。納得したのだろうか。視野の広い阮甫のことだ。新時代の息吹を感じ取っていたことだろう。近代の到来を告げた一通の手紙を訳した箕作阮甫を、津山市民が誇りに思うのももっともである。