「西の富士、東の筑波」と言うそうだが、筑波山がこれほどまでとは思わなかった。標高877mって普通の山じゃね?ってナメていたのがいけなかった。関東のランドマークであり、その姿、歴史ともに一級の価値を有する名山であった。偉大なるかな筑波山、ここは信仰の山、歌枕の山であった。
つくば市筑波に「筑波山神社」が鎮座する。
標柱の揮毫は旧唐津藩主家の従二位子爵小笠原長生(ながなり)である。海軍中将まで昇進した軍人で、しかも文筆に長じていた。彼の著した東郷平八郎の伝記は、東郷の神格化に影響を及ぼした。
入口にある御神橋(ごしんきょう)は県指定文化財である。その名のとおり神様の橋で、御座替祭(おざがわりさい)では神輿が渡る。この時ばかりは参拝者も渡橋を許されるようだ。
寛永十年(1633)11月に徳川家光公が寄進、元禄十五年(1702)徳川綱吉公が改修したもので、説明板によると「安土桃山時代の豪壮な遺風が見られる」ということだ。矢印で示した妻飾りの唐草模様などがそうだ。
随神門(ずいしんもん)は、文化八年(1811)に再建されたもので、市指定文化財である。説明板によると「県内随一の規模」ということだ。間口五間二尺、奥行三間の大きさである。
この立派な門には明治維新まで仁王が安置されていた。この地は筑波両大権現と呼ばれる神仏習合の信仰が盛んで、その中心的存在が知足院中禅寺であった。つまり筑波山神社随神門は中禅寺仁王門だったのである。
維新期の廃仏毀釈の嵐は、筑波山にも容赦なく吹き荒れた。あのイスラム国の古代遺跡破壊の映像を思い起こさせる。中禅寺は廃寺となったが、仁王さまは難をのがれることができたようだ。現在東福寺(つくば市松塚)で大切にされている。
改めて随神門を見よう。二体の像があるのが分かるが、仁王ほど屈強な体躯ではない。向かって右側の像に近付いて見ると…
こちらは豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)である。第10代崇神天皇の皇子で命により東国を治め、上毛野君(かみつけののきみ)、下毛野君(しもつけののきみ)の始祖となったという。
向かって左側は有名な倭建命(やまとたけるのみこと)である。第12代景行天皇の皇子で、文字どおり東奔西走して朝廷の版図拡大に貢献した。この古代最強のヒーローは、筑波山にも登ってきたという。説明板を読んでみよう。
筑波山に縁り深い古代武人の一人で第十二代景行天皇の皇子である。 天皇の四十年伊勢神宮に詣でて倭姫命より託された三種の神器の一つのあめのむらくもの剣を奉じて東征に赴き筑波山に登拝し給う。東北の日高見国より還路甲斐国酒折宮にて「にいばり筑波を過ぎて幾夜か寝つる」 と詠み給い篝火役の翁が「かかなべて夜には九の夜日には十日を」 と詠い続けた。世に筑波の道と云い連歌の始まりである。
ああ、やっと分かった。かつて日本史で『菟玖波(つくば)集』『新撰菟玖波集』『犬菟玖波集』という連歌集を習ったが、よく似た名前ばかり登場すると思っていた。「菟玖波」とは『日本書紀』に見える筑波の万葉仮名であり、やがて連歌を意味するようになったのだ。
倭建命は「新治や筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか」と歌で尋ねたが誰も答えられない。かがり火の番をする老人だけが「数えてみると、夜は九夜、昼で十日でございます」と歌で返した。倭建命は「そうだろう。それほどまでに広い土地を手に入れたのだ。お前を東国造(あずまのくにのみやつこ)にしてやろう」と満足な様子だった。『古事記』の伝える話である。
こうした歌問答が行われ、連歌発祥の地とされている酒折宮(さかおりのみや)は、甲府市酒折三丁目に鎮座する古社であり、境内にはその歌碑がある。
近くの山梨学院大学は酒折連歌賞を主催している。示された問いの片歌に対して、答えの片歌を五・七・七でつくって応募するものだ。連歌の伝統を伝えていくよいコンクールだと思う。
伝統ある連歌の初作品に「筑波」が詠み込まれた。以後「つくば」は歌枕となり、連歌の異称ともなっていく。随神門にいらっしゃる倭建命は、この地を歌枕として連歌を詠んだ最初のお方だったのである。
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