忠臣といえば楠木正成が連想されるほど,その忠節ぶりは大いに喧伝されてきた。勤皇精神の一途さは後世の人々に感銘を与えた。しかし,その正成を世に送り出したのは,他ならぬ水戸黄門様であった。
神戸市中央区多聞通3丁目に鎮座する湊川神社に「嗚呼忠臣楠子之墓」(大楠公御墓所)と「楠木正成戦歿地」(大楠公御殉節地)がある。
同神社発行の『大楠公御一代記』を読んでみよう。
湊川での激しい戦いは,朝から夕方まで続き,さすがの楠木軍も,わずか七十余騎にまでとなりました。最早これまでと大楠公以下は,湊川の北方(現在の湊川神社の御殉節地)まで落ちのび,弟正季卿と「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」(七生報国)と互いに誓い合い,兄弟刺しちがえて,その偉大な生涯を閉じられたのでした。
大楠公のお墓は,長い間ひっそりとまつられていたのですが,豊臣秀吉の時代に発見されました。その後,尼崎藩主青山幸利により守られていましたが,元禄五年(1692年)地元の人々の熱意を受けられた徳川光圀公が,約半年をかけて,立派なお墓を建立されました。「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑文は,大楠公を大変尊敬されました光圀公が,自らお書きになったものです。
戦国の世には顧みられなかった楠木正成であるが,元禄の太平の世では忠臣として脚光を浴びる。名分論を重んじる水戸学が世に送り出した英雄である。そのイメージは,講談では天才軍師,修身教科書では日本人の鑑として固められていく。その反動からか戦後の歴史学は,悪党のイメージが強調されるようになった。こうした偶像破壊はよくあることだ。
光圀公がお書きになったという碑文。あたかも光圀公が神戸にお出ましになったように思えるが,実際には家臣の助さん(佐々介三郎宗淳)の活躍で建立に至った。しかし,黄門の諸国漫遊のイメージが,ここから生まれているのは確かなことだろう。
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