岡山県でいま人気のある大名は誰だろうか。備前岡山では宇喜多秀家。戦国の貴公子と呼ばれ、イベントが開かれている。備中高梁では山田方谷。主君よりも家臣が人気で、大河ドラマ化の署名が100万人に達したそうだ。作州津山では藩祖森忠政だろう。他地域に比べて少々地味だが、歴代津山藩主の中では抜群の知名度である。
津山市山下の鶴山公園入口に「森忠政公」の像がある。
近年の武将像はイケメン化傾向にあり、おそらく実像とは乖離していることだろう。キャラ化した武将像は誰もが似たような顔立ちであり、当人だと判別できるのは兜か家紋くらいしかない。この忠政公の像は正直イケメンには遠く及ばず、誰もが「あ、忠政公だ!」と判別できるシンボルもなく、衣冠束帯なので武将にすら見えない。
だが、この像こそ歴史に誠実に向き合っているのである。この姿この顔立ちには根拠があるのだ。説明板を読んでみよう。
森忠政 一五七〇-一六三四
幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。京都本能寺の変で、織田信長を守護し、非運の最期を遂げた森蘭丸の弟。天正一二年(一五八四)兄長可(ながよし)の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山七万石を与えられる。のち徳川家康に仕え、慶長五年(一六○○)信濃(長野県)川中島一三万七○○○石を領す。同八年美作国一円一八万六五○○石を与えられ津山に入封。翌九年より津山城の築城に着手、また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。寛永一一年(一六三四)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年六五才。なお、この像は、津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。
菩提寺の木像以上に確かな根拠があるだろうか。兄は必ずイケメンに描かれる森蘭丸である。本能寺の変当時13歳だった忠政も颯爽とした少年だったかもしれないが、将来小太りのおじさんになったとしても何ら問題がない。像は人物の容姿を鑑賞するものではなく、その事績を偲ぶためにあるのだ。
森家は大変な状況に陥っていく。六人兄弟の長男と父が相次いで討死、三男、四男、五男が本能寺の変で討死、小牧・長久手の戦いで二男の鬼武蔵長可まで討死して、忠政だけが残されることとなる。その忠政も本能寺の変に巻き込まれていた可能性があったようだ。『森家先代実録』巻第五に次のような記述がある。『岡山県史』第二十五巻津山藩文書より
天正十壬午(御歳十三)春、初て信長公へ御奉公に出給ひ、或時御次の間に詰給ふ、梁田弟河内守前廉より御児小性にて相詰しが、千丸君の初心の御姿ヲおかしくや思ひけん、ざれかゝり御顔ヲ撫なから信長公の御前へ出しヲ、千丸君其儘追詰、彼人の頭ヲ扇子ヲ以て二ツ打給ふ、信長公上覧有て、千めハ中々側廻リニ仕るゝ奴にてなし、母か方へ戻セとの上意にて本能寺の御供ニはづれ、不慮に御命遁さセ給ふ
十三歳の時、兄に続いて信長公の小姓として仕えることとなった。ある時、先輩が「小顔にしてまーす」と言ったかどうか知らないが、千丸くん(忠政)の顔を撫でながら信長公の前に連れてきた。このちょっかいをうっとおしく思った千丸くんは、「なにすんじゃ」と先輩を追い詰め、扇子で頭をピシピシ叩いたのである。信長公はこれを見て、「千丸はまだ無理じゃ。母のもとへ帰せ」と言った。このあと、本能寺の変が起きるのだが、千丸くんの命が助かったのは、ちょっかいを我慢しなかったおかげなのだ。
「お母さん、引き取りに来てください」との連絡を受け、「ご迷惑をおかけして…」と頭を下げたお母さんはこちらだ。
津山市戸川町の妙願寺境内に「妙向禅尼之像」がある。
戦国の母も美化すればよいのに、そのようなイラストは見たことがない。この姿この顔立ちにも根拠があるのだ。説明板を読んでみよう。
津山城主森忠政公御母堂妙向禅尼は夫君森可成公討死により剃髪し浄土真宗に帰依す。石山戦争に際しては和睦成立のために奔走し本願寺の危機を救う。是に於て織田信長公との盟約により妙願寺を建立す。今茲に歎異抄に聞く会創立十五周年を迎えまた森長可・関成倫両公四百回忌並びに森忠政公三百五十回忌に当たり所蔵の勝寿院殿妙向禅尼御真影を謹写して石像となし禅尼の遺徳を偲ぶ。
昭和五十七年六月 妙願寺第十五代院家森嵩正識
寺の所蔵する県重文「妙向尼画像」に基づいている。この絵は元和七年(1621)に西本願寺の准如から妙願寺に贈られたものだ。本願寺が石山合戦の和睦に尽力した妙向尼の功績を称え感謝しているのだろう。
妙願寺ははじめ美濃金山城下に建立され、妙向尼は忠政を僧にしようと考えたが、森氏を継いだので、外孫(関成政に嫁いだ娘の子)を僧とした。妙向尼は金山城下で亡くなり、墓所は可児市兼山の妙願寺跡地(現常照寺)にある。
津山市はさまざまな都市縁組を結んでいるが、可児市とは「歴史友好都市」を結んでいる。両都市で城主となった森忠政が結んだ縁である。津山を知らない妙向尼は、異郷の地で姿絵が文化財となり石造まで建立されている。さすがは戦国の母、孝行な息子は立派な武将になられましたぞ。