今日は「乙女の像」である。もっとも有名なのは十和田湖のそれで、高村光太郎の傑作である。その次は、長崎平和公園の像で中国の胡耀邦総書記からの贈り物である。写真を見ると分かるが、長崎のほうが洗練された現代的な美しさがある。
素材は上質な大理石で、裏面には胡氏の「和平」の文字が大きく刻まれている。そして北京復興門にはこの像の複製が置かれているそうだ。
重慶共産主義青年団の週刊紙『重慶青年報』(7月3日版)に、広島と長崎の位置に「きのこ雲」と炎のイラストを描いた日本地図が掲載された。そういう無神経さを乗り越えて、日中人民は胡耀邦氏の「和平」の念で心を一つにすべきだろう。
高松市仏生山町甲に「いわざらこざら 乙女の像」がある。
長崎の乙女の像はゴージャスな感じだが、こちらはずいぶんと質素な印象だ。昭和47年にいわざらこざら顕彰会がつくった。像が面するため池は広々として穏やかな表情だが、乙女にはそこはかとなく悲哀が漂っている。
ため池の名は「平池」と書いて「へいけ」と読む。そして、乙女にまつわる伝説の名が「いわざらこざら」である。いかにも、何かありそうな雰囲気である。さっそく、伝説を読んでみよう。
悲しく美しい人柱
およそ八百年の昔、治承二年、村人たちは深い憂いに沈んでいた。というのは平池の堤は幾度築いても雨が降るたびに崩れ田畑は水に流されて普請奉行阿波の民部田口成良も難工事にホトホトもてあましていた。今日も京の都からは平清盛の厳命が届いたばかり。その晩疲れはてゝ眠りもやらぬ成良の枕辺に白衣垂髪の女神があらわれ、不思議なおつげを残して姿を消した。「あすの午の刻白衣垂髪の乙女が械のチキリを持って通るであろう。その乙女を人柱として堤に埋めれば工事はきっと成就する」というのであった。まんじりともせず成良は早朝から人夫たちに堤を見張らせ乙女の来るのを待ち構えた。ほどなくお告げのとおりチキリを抱いた白衣垂髪の乙女が現われ、「今月は大の月な小な月な」とたずねる乙女を捕え準備した穴に投げこみ急いで土をかぶせてしまった。不思議にも「おつげ」のとおりであった。
こうして人柱の上に高く築きあげられた堤は、その後の大雨にも崩れることなく豊かに二百八十町歩の実りの水をたたえている。チキリ乙女の悲哀の声は決して村人の耳から消えることなく、ちょうど人柱として埋められた堤の一ヶ所はいくらつき固めても岩はだをにじみ出る水は絶えることがない。さながら乙女の悲しい運命をすすり泣くように「いわざらん、こざらん」「いわなければよかった、こなければよかった」と聞えてくるという。その場所は後世の人たちから“いわざらこざら”と呼ばれている。仏生山町と香川町との境の高台にある平池にまつわる物語である。その霊をここにまつり榺神社の由来となったと言う。数多い伝説の中で平池の物語は悲しくも美しい。
「阿波の民部田口成良」は、平清盛の命により承安三年(1173)に大輪田泊の経ヶ島の築造工事を担当した豪族である。阿波から讃岐にかけて大きな勢力を有していたという。その優れた土木技術により治承二年(1178)に平池の築造も請け負ったのだろう。
しかし、民部の実績をもってしても工事は困難を極め、ついには人柱を立てることとなったのである。あまりにも非人道的な人柱。犠牲となることが自らの意志かどうかは、物語の読後感を大きく左右する。以前に紹介した国兼池の人柱は、姉妹自ら申し出た人柱だった。
それに比べてどうだ。チキリを持って通りかかった少女は有無を言わせず埋められてしまった。悲劇的なあまりに悲劇的な。「来なければよかった」本当にその通りだ。運命を呪うしかない。
ところで、チキリとは何か。機織りで経糸を巻き取る道具ということだ。その漢字表記は乙女の像の足元にある。
「勝」の字と混乱しそうだ。この難読な「榺(ちきり)」という神社が、高松市仏生山町甲にある。
先ほど引用した伝説の説明板はこの神社にある。御祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)である。この神は、機織りをしている時にスサノオが皮を剥いだ馬を投げ入れたため、梭(ひ=緯糸を通す道具)で重傷を負い亡くなった。
こちらもひどい話だが、機織り娘の悲劇という点では共通している。理不尽な死を遂げた平池の乙女の霊を、稚日女尊という神に仮託して祀っているのかもしれない。そう思いながら改めて乙女の像を眺める。悲劇は二度と繰り返さないで下さい、と静かに訴えているようだ。
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