生存伝説ほど面白いものはない。死んだはずの人が生きているのだから、驚くと同時におめでたいことでもある。話としては面白いが、実際には空想の産物に過ぎないようだ。西郷隆盛、大塩平八郎、明智光秀、安徳天皇、そしてスケールの大きさで有名なのが源義経の伝説である。
義経の兄に、源範頼(みなもとののりより)という武将がいる。この人にも生存伝説がある。「生きていてくれたら」と人が願うのは、無念の思いを残して亡くなった人ばかりである。範頼の無念の思いとは何だろうか。
鳥取市河原町片山の霊石山中腹に「源範頼の墓」がある。ふもとの最勝寺の旧境内だそうだ。
範頼は兄頼朝の不興を買って伊豆修禅寺に幽閉されたと聞いたが、遠く離れた因幡に墓があるとは、どういうことだろうか。説明板を読んでみよう。
範頼は、伊豆の修善寺で、頼朝の家来の梶原平三景時父子3人に、5百の兵をもって修善寺を包囲され、防戦したけれど、力およばず、ついに寺に火をつけ、火中に身を投じて死にました。
実は討死した家来を火中に投じたのです。
それとは知らぬ景時は、火中の骨をもって範頼を討取ったと鎌倉に報告しました。
そのひまに範頼は、伊豆の国から逃れて、因幡の国に来たのでした。
範頼は、出家して、教頼法師と名のり、建久8年11月10日、45才でなくなり、最勝寺に葬られました。
河原町
範頼はトリックを使って生き延びていたのだ。それにしてもなぜ因幡なのか。縁故がなければ落ち延びることはできそうにないが。そういえば以前に、安徳天皇が壇ノ浦に沈まず因幡の地に逃れてきたと紹介した。安徳帝をお守りしようと駆け付けたというのだろうか。
源範頼の墓は各地にある。伊豆市の修禅寺、浜松市の龍泉寺、横浜市の太寧寺、伊予市の称名寺(鎌倉神社)、北本市の石戸蒲ザクラ、そして鳥取市の霊石山である。本命は伊豆修禅寺だろう。根拠は『吾妻鏡』建久四年(1193)八月十七日条である。
十七日 辛亥 参河守範頼朝臣、伊豆国に下向せらる。狩野介宗茂・宇佐美三郎祐茂等、預り守護する所なり。帰参其期有る可からず、偏に配流の如し。
この記事を最後に範頼は登場しなくなるため、伊豆で殺害されたのであろう、というのが一般的な見方だ。ただし、死んだとは記されておらず、そこに生存伝説の生まれる余地があった。
では、人々はなぜ範頼を生かしておきたかったのだろうか。時代は下るが南北朝期の『保暦間記』には、次のように記されている。
同八月三河守範頼被誅畢(ちうせられをはん)ぬ。其故は去る富士の狩の時、狩場にて大将殿打れさせ給と云事鎌倉へ聞えたりけるに、二位殿大に騒で嘆せ給けるに、範頼鎌倉に留守也けるが、範頼左て候へば御代は何事か候べきと慰め申たりけるを、扨(さて)は世に心を懸たるかとて被誅けるとかや。不便なりし事也。
建久四年八月、源範頼が処刑された。その理由はこうだ。富士の巻狩の際、「狩場で頼朝殿が討たれた」という誤った情報が鎌倉へ伝わった。妻の政子さまが取り乱して嘆いておられると、ちょうど鎌倉にいた範頼が「私がおそばについております。ご安心なさいませ。」と申し上げた。すると「頼朝に代わって天下をとるつもりか」と疑われ処刑されたという。あわれなことだ。
頼朝にとって代わろうなど、大それた考えは、範頼になかったろう。政子を安心させたいという、純粋な思いから発した言葉だろう。それを猜疑心の強い頼朝が疑い、ライバルとなりそうであれば兄弟とて容赦しなかったのである。「不便(不憫)なりし事也」という範頼への同情は当時からの一般的な見方であり、これが生存伝説を育むこととなった。
範頼は源氏の総大将として軍を率いたが、おいしいところはすべて義経に持っていかれた。頼朝の命に忠実に従ったにもかかわらず、理不尽に誅されてしまった。そんな範頼の無念を、各地の人が生存伝説で慰めている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。