毎年8月15日に黒坂納涼まつりが鳥取県日野郡日野町黒坂で行われている。この時期になると、赤地に黄色の家紋を染め抜いたのぼりが城跡や城下町に彩りを添える。家紋には羽を立ててとまる美しい蝶が描かれており、「撫角揚羽(なかくあげは)」と呼ぶそうだ。
日野町の中心集落は根雨だが、黒坂には警察署があり日野町のみならず日南町、江府町、伯耆町という広範囲を管轄している。江戸期には鳥取藩から自治権を与えられたお殿様が陣屋を置き、その前には黒坂藩という独立した藩があった。本日は黒坂の城跡からのレポートである。
日野町黒坂に「鏡山城址」がある。「黒坂陣屋」が置かれた場所でもある。
背後の山にも城跡があるので登ってみよう。
土塁が築かれている。こちらは近世以前からの山城らしい。鳥取県が明治四十年に発行した地誌『因伯記要』には次のように紹介されている。第三章名所旧跡第七日野郡より
黒坂城
日野郡黒坂にあり鏡山城と号す天正中日野義泰の居城たり義泰上京の暇に乗し弟義行奪て之に居る後足利氏義行か罪を責め自殺せしむ毛利氏の時に及て吉川氏の領する所となる慶長十五年関氏嗣なきを以て家断つ同年池田光政の領地となる寛永九年池田光仲受封の後家臣福田丹波の保管に帰せり関氏居城の際町数七ありしと云ふ
城の歴史をざっくりとつかむことができる。この地に城下町を整備したのは関氏である。関氏という大名は備中新見藩主として知られており、黒坂と新見はJR伯備線でもつながっているが、黒坂と新見の関氏は異なる一族である。「寛政重脩諸家譜」によれば、新見関氏が藤姓秀郷流であるのに対し、黒坂関氏は平姓である。揚羽蝶の家紋は平氏に由来するわけだ。黒坂藩主関一政(せきかずまさ)については、城跡にある説明板に詳しく記されている。
黒坂鏡山城址の概要
黒坂鏡山城
伊勢亀山の城主、関長門守一政(三万石)が、二万石加増され、五万石で遠く黒坂の地に国替えになったのは、今から約四百年前、慶長十五年(一六一○)の事である。
関氏は平氏から続く伊勢の土豪で、一政は、織田信長、豊臣秀吉、蒲生氏郷、徳川家康等の配下として戦った歴戦の武将で、黒坂に来るまでは奥州白河、信濃、美濃、伊勢と次々国替えになっている。また、和歌を詠んだり当時の文化人との交流もあったようである。
当時の黒坂は竹木が生え茂り人住むところには見えなかったという。四方を山に囲まれ日野川が周辺を巡り、築城の条件にかなう適地として選ばれた。城と同時に町造りもされ、五万石に相応しく大規模な町並みが、現在の町割りにほぼそのまま残っている。この城下町全体は「総構え」と云い、戦国期の城に見られる。現在天守等は確認されていないが、堀、石垣、表口の大手、裏口の搦手(からめて)、升形虎口(ますがたこぐち)等、近世の城郭の様式がある。
しかし関氏の居城は、わずか約八年にして「家中争論」を理由に領地を幕府に召し上げられた。これは外様大名の宿命であった。そして幕府の「一国一城令」により城は廃され、居館がその後陣屋として使われた。
大名でなくなった関家は、一政の養子「氏盛」が名跡存続を許され、旗本寄合として、近江蒲生に五千石を与えられ数々の活躍をしている。
一政は寛永二年(一六二五)十月二十日、六十一歳で死去。京都大徳寺正受院(しょうじゅいん)に妻や早世した二人の実子と並んで墓がある。
また、当時をしのばせる物語、文書が数点あるが、後世、読み物として書かれたもので大変面白く、興味深いものがある。
新たに鳥取藩主池田光政の重臣、池田下総守長政が一万四千五石で陣屋に入り、十五年間治めるが、この間の記録は余り見られない。
次いで寛永元年(一六二四)より明治二年に至る二百年余りは、鳥取藩主池田光仲の番頭(ばんがしら)筆頭の福田氏による治世が十一代続き、その間自分手政治(行政の一部を任されること)を行った。福田氏は地頭様(じとうさま)とよばれ、知行は三千五百石で黒坂を中心に十八カ村を領し、平素は鳥取に居て黒坂にはほとんど来ることなく、城奉行として山上半太夫(世襲)を常駐させその任に当たらせていた。奉行屋敷は現在の黒坂駅前に並んでいた武家屋敷の中にあった。
なお、福田氏四代、八代の墓地は「お墓さん」と言って福田家に相応しい大きな墓が城址の北方にある。
安政五年(一八五八)には日野郡を二分し、口日野、奥日野にそれぞれ郡役所が設けられ、明治二年十一月、幕府政治の終わりとともに、黒坂陣屋は旧藩主池田家へ引き揚げとなり、明治三年には黒坂陣屋は日野郡の郡役所として二年間使用される。
不明の個所も数多いが、これからの調査によって更に解明されることと思う。
平成二十五年三月
黒坂鏡山城下を知ろう会
関一政は気の毒なことに「家中争論」という不祥事で改易となってしまう。家臣は大切なお家をつぶすほど何を争ったのだろうか。わずか8年ほどの治世であったが、黒坂の人々のアイデンティティとして求められたのは関氏であった。やはり独立した藩であったことが誇りに思えるのだろう。
後に三名君の一人と敬愛される池田光政が幼くして姫路から鳥取へ移封してからは、家臣の池田長政が黒坂の陣屋を預かった。この下総守長政は本ブログ記事「備作国境を守った藩家老」で紹介した河内守長政(片桐池田家)とは別人で、光政の岡山移封後に建部で陣屋を構えることになる。岡山藩六家老の森寺池田家である。
黒坂をもっとも長く治めたのは、「地頭様」と呼ばれた福田氏であった。地頭といえば鎌倉時代に「泣く子と地頭には勝てぬ」と呼ばれるくらい権力をほしいままにしていたイメージがあるが、福田氏の場合は敬意を込めた呼び方なのだろう。お墓にまで敬称が付いているくらいだから。
鏡山城址の北方に「地頭福田家墓地」があり、「お墓さん」と呼ばれている。
城下町を見守るかのように少し高い場所に築かれている。説明板を読んでみよう。
関氏についで池田下総守がしばらく黒坂に在城したが、寛文元年(一六六一)より明治二年(一八六九)に至る二百年余りの間は、鳥取藩主池田氏の家老福田氏が黒坂陣屋にあって治めた。知行は三千五百石であった。
福田氏は、平素は鳥取にあり黒坂には城奉行を駐在させたが、因幡二十士が泉龍寺に幽閉された時は、自ら入城して警固の任にあたった。
福田家の菩提寺は鳥取の一行寺であるが、左の二世は黒坂を懐かしみ遺言によってここに葬り、光西寺にて弔祭が行なわれている。
第四代福田筑後守久武
第八代福田丹波守久寧
一段下の墓地には長臣山上半太夫の碑がある。
上段左が享保元年(1716)に亡くなった久武の墓で「故騎将兼黒坂県大夫福田久武府君之碑」とあり、「府君」は亡き父を表す言葉だ。重厚な墓碑銘も権威の象徴である。右は文政元年(1818)に亡くなった久寧の墓で「因藩福田久寧君之墓」とある。
「因幡二十士」は本ブログ記事「テロを引き起こした人心の分断」で紹介した尊攘派のテロ事件で、20名の武士がこの地区の泉龍寺で謹慎させられた。長く平和だった黒坂に緊張を強いる大事件だったが、地元の人々との深い交流が生まれ、遺品は今も大切にされている。
伯耆黒坂、ここには日野郡の歴史を動かす政治機能があった。鏡山城址のすぐ前にJR黒坂駅がある。特急やくもは停車しないが、歴史を探訪する旅人は必ず黒坂に誘われるだろう。歴史が重層的だと実感できる町である。