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塩冶判官の妻、顔世御前に袖にされた高師直は、その憤懣を判官にぶつける。きれいな奥さんがおったら家から出たくないわな。はん、もう来んでええで。竹田出雲は『仮名手本忠臣蔵』三段目「殿中刃傷の段」で師直に、次のような台詞を吐かせるのだった。
総躰(そうたい)貴様の様な、内に計(ばかり)居る者を、井戸の鮒ぢやと言ふ譬(たとへ)がある、聞いて置かしやれ。彼(かの)鮒めが僅(わづか)三尺か四尺の井の内を、天にも地にも無い様に思うて、不断外(ほか)を見る事がない、所に彼井戸浚(いどがへ)に釣瓶に付いて上(あが)ります、夫(それ)を川へ放し遣(や)ると、何が内にばかり居る奴ぢやによつて、喜んで途(ど)を失ひ、橋杭(はしぐひ)で鼻を打つて、即座にぴり/\/\/\と死にます、貴様も丁度その鮒と同じ事、
この井の中の鮒のたとえがあまりにも強烈だったので、後の人は台詞をさらに加えたのである。それが有名な…
鮒よ、鮒よ、鮒だ、鮒だ、鮒武士(ふなざむらい)だ
ここまで罵倒されたら、いかに殿中であっても刀を抜きたくなるだろう。塩冶判官への共感は取りも直さず浅野内匠頭への同情であり、それは赤穂義士への喝采でもあった。忠臣蔵の人気で再評価された塩冶判官、そのゆかりの地を訪ねたのでレポートする。
出雲市上塩冶町の鹽冶神社に「出雲隠岐守護塩冶判官高貞公顕彰の碑」がある。
浅野内匠頭は赤穂藩主だから、仇である吉良を討った赤穂義士が有名になったが、塩冶判官に対するパワハラは架空の物語だから、仇討もなければ義士も存在しない。判官はどのような人物だったのだろうか。碑文を読んでみよう。
塩冶判官高貞公は鎌倉末期から南北朝の激動する世相の中を、出雲の守護として「天長、地久、国土安泰」を念じ懸命に生きようとした我が郷土の誇るべき武将である。
世に言う元弘の乱(一三三一年)以来、後醍醐天皇の親政を救け、京都還幸の先達を務め建武の中興を支えるにない手となった。その後室町幕府の要職にあったが、いわれなき讒訴(ざんそ)にあい、京都を出奔、最愛の妻西の台の局をも失い、自らも馬上で妻子の後を追った。
人間味豊な武将である。
後世、高貞公夫妻の名は歌舞伎の名作「假名手本忠臣蔵」によって脚色され、民衆の人気の的となった。
本年高貞公歿後六百五十年に当たり、全国各地の塩冶氏、高貞公の末裔、南條氏、地名を氏とした塩冶郷の人達と語らい古墓を整備し御霊を慰め子孫の繁栄を願い、その生き方をしのび、ここに後世に伝えるものである。
平成三年九月吉日 塩冶判官高貞公六百五十年祭実行委員会
政治的には主流派に属していたものの「いわれなき讒訴」に遭ったという悲劇の武将である。古い墓があるというので、塩冶氏の菩提寺であったという寺を訪ねた。
出雲市塩冶町の神門寺(かんどじ)に「塩冶判官高貞公之墓」がある。
近くにある説明板の内容は、先に紹介した碑文に比べて詳細であり、新たな情報を得ることができる。読んでみよう。
出雲隠岐伯耆守護塩冶判官高貞公の事績
高貞公は塩冶氏三代目として塩冶に生れ、正中年間 (一三二五)鎌倉幕府の御家人で、大廻城を本拠とし出雲国内を治めていた武将。高貞公が歴史の表舞台に登場するのは、世に言う元弘の乱(主上ご謀反一三三一)以降、後醍醐天皇の隠岐配流、そして船上山に一族を率い参上、建武の中興を支えた。併し親政は二年で崩壊し南北両帝の対立する南北朝に入る。高貞公は北朝側にあって南北朝の統一に努めたが、其事が陰謀の企てありと、執事高師直に讒訴され京都を追われ妻西台の局(顔世御前)は姫路市豊富町陰山の里で追手の急追に耐えられず自害。高貞公は再起を期し八束郡宍道迄別路帰国したが、妻子の死を知り自らも馬上で自刃し果てた。人間味あふれる武士であった。それは暦応四年(一三四一)四月三日の事であった。
国内に残る事蹟として、元徳年間(一三三〇)市内渡橋町観音寺の再建。正慶二年(一三三三)上塩冶西蓮坊の建立。日御碕神社へ宗安の兜、佐太神社へ大刀一振を寄進。本寺境内には塩治氏の遠祖佐々木義清(祥雲庵)高貞(世尊院)の位牌所が、江戸時代の神門寺絵図に記載されている。往昔より神門寺は塩治氏の菩提寺であったことを物語っている。高貞公歿後六五〇年、郷土の偉大な先達の生き様を通し、その理念(天長地久国中安泰)に学ぶ事こそ最大の顕彰であり供養である。神門寺には塩冶氏を偲ぶよすがが多い。
平成五年(一九九三)四日三日
塩冶判官高貞公顕彰委員会 飯國晴雄記
讒訴したのは高師直であった。師直のえげつなさを後世の人々は吉良上野介に重ね合わせ、義憤に駆られながら「鮒武士」の台詞を聞いたに違いない。そして馬上で自刃するという壮烈な最期を遂げた塩冶判官の口惜しさに大いに同情したことだろう。判官最期の地「八束郡宍道」とはどこなのか。
松江市宍道町宍道に「塩冶判官高貞之碑」と刻まれた石碑があり、その手前に「伝塩冶高貞首塚」という標柱がある。石碑の右隣に「西台顕彰碑」という小さな碑もある。
ここまで帰れば本拠地塩冶まであと十数キロ。態勢を立て直して一戦交えんという気構えはなかったのだろうか。顔世ちゃんのいない世の中なんて生きる意味がないと思ったのだろうか。新しい色をした石碑を読んでみよう。
出雲隠岐伯耆国守護 従五位上
塩冶判官高貞公之旧跡
暦応四年(一三四一)四月三日歿(太平記巻二十一)
高貞公及び重臣木村源三外一門もこの地にて自刃す
平成三年(一九九一)九月五日塩冶氏の菩提寺出雲市神門寺に於いて
高貞公夫妻および主従の六百五十大遠忌法要をおこない霊を弔う
平成三年十一月吉日
出雲市塩冶判官高貞公六百五十年祭実行委員会
判官が自刃したのは暦応4年(1341)4月3日、その出典は『太平記』巻二十一だという。以前に顔世御前が自害に追い込まれた姫路市豊富町陰山の里を取り上げ『太平記』「塩冶判官讒死事」の関連箇所を引用したが、今回は判官自刃の場面を紹介しよう。
三月晦日に塩冶出雲国に下著しぬれば、四月一日に追手の大将、山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏、三百余騎にて、同国屋杉の庄に著給ふ。則国中に相触て、高貞が叛逆露顕の間、誅罰せん為に下向する所也。是を討て出したらん輩に於ては、非職凡下を云ず、恩賞を申与ふべき由を披露す。聞之他人は云に不及、親類骨肉迄も、欲心に年来の好を忘ければ、自国他国の兵共、道を塞ぎ前を要(よぎつ)て、此に待彼(かしこ)に来(きたり)討んとす。高貞一日も身を隠すべき所無れば、佐々布山に取上て、一軍せんと馬を早めて行ける処に、丹波路より落ける若党中間一人走附て、是は誰が為に御命をば惜まれて、城に楯籠らんとは思召候や。御台御供申候つる人々は、播磨の陰山と申所にて、敵に追附れて候つる間、御台をも公達をも皆刺殺し進(まゐら)せて、一人も残らず腹を切て死て候也。是を告申さん為に甲斐なき命生て、是迄参て候と云もはてず、腹かき切て馬の前にぞ伏たりける。判官是をきゝ、時の間も離れがたき妻子を失れて、命生ても何かせん。安からぬ物哉。七生迄師直が敵と成て、思知せんずる物をと忿(いかつ)て、馬の上にて腹を切、倒(さかさま)に落て死にけり。
塩冶判官は三月末日に出雲国に入ったのだが、追っ手の山名時氏・師義父子も4月1日、同国屋杉庄に到着する。山名氏は
「我々は塩冶高貞の謀反が明らかになったので討伐するためにやって来た。協力する者には上下関係なく恩賞を与えよう。」
と布告した。これを聞いた人はもちろんのこと、塩冶の血縁の者までも欲心から年来のよしみも忘れて力を貸し、他国の兵も地元の者も道をふさぎ、方々から判官に迫って来た。判官はもはや身を隠すことができなくなり、佐々布山に上がって一戦交えんと馬を進めていると、丹波路より落ち延びてきた若い家来が走って来て
「いったい誰のために命を惜しんで城に立てこもろうといわれるのでしょう。奥方さまもご家中も播磨の陰山という所で敵に追いつかれ、おそれながら奥方さま近侍の者ともども刺し殺し、一人残らず自害いたしました。このことをお伝えしようと、取るに足らぬ命ですが、ここまでやってまいりました。」
と言うやいなや自害して馬の前に倒れた。これを聞いた判官は
「片時も離れがたい妻子を失い、命があっても希望はなく、心安らかにはいられない。かくなるは何度生まれ変わろうと高師直の仇となって思い知らせてやろう」
と憤怒のあまり馬上で腹を切り、落馬して死んだ。
壮絶な最期に絶句するが、これが虚構ではないかとの指摘を「美しすぎる人妻の悲劇」で紹介した。『太平記』は史料である以前に物語である。高師直はより狡猾に、塩冶判官はより悲劇的に描かれているのだろう。この分かりやすい構図が浅野内匠頭と吉良上野介にも準用されたのである。
悲劇のヒーローに仕立て上げられた判官の塩冶氏はどのような一族なのだろうか。塩冶郷に戻って塩冶氏の本拠地を訪ねてみよう。
出雲市上塩冶町に「大廻城跡」がある。
道沿いに説明板があるからそれと分かるが、ふつうの山にしか見えない。説明板を読んでみよう。
この上の小高い山が大廻城跡です。主な郭が三か所あって土塁などが残っています。
今から約八百年前、源平の戦いを宇治川の先陣争いで有名になった佐々木高綱の弟義清が鎌倉幕府より出雲国の守護職を命ぜられました。その孫頼泰が弘安年(一二八〇~)に築いたのが大廻城だと伝えられています。
頼泰は塩冶郷に守護所を移し地名を氏とし塩冶頼泰と名のりました。
それから約五十年後、南北朝の争乱の時、塩冶判官高貞が活躍した事は世に有名です。
城跡南麓には高貞を弔った頓覚寺跡があり、上塩冶築山には高貞社跡があります。
高貞は江戸時代の劇作家武田出雲の作「仮名手本忠臣蔵」の浅野内匠頭のモデルとなった人です。
平成十五年十月 塩冶クラブ
塩冶氏は近江源氏から分かれた出雲源氏の代表的な氏族である。この城を築いて塩冶を名乗ったのが塩冶頼泰で、高貞はその孫にあたる。ただし、出雲市教育委員会『塩冶判官館跡』(2003年)という調査報告によれば、大廻城の比定地は向山城跡、平家丸城跡、半分城跡、大井谷城跡などがあるという。このうち「向山城跡」がいま紹介している城である。
大廻城を本城とした館跡も付近に存在するはずだ。『塩冶判官館跡』によれば向山城南麓、上塩冶築山付近、浄音寺境内遺跡、上塩冶般若寺付近などが考えられるという。いずれにしろ塩冶郷が塩冶氏の本貫地であることは確かだ。菩提寺である神門寺に戻り、一族のお墓にもお参りしておこう。
出雲市塩冶町の神門寺に「出雲国守護 佐々木・塩冶一族の墓」がある。
大きな、そして古そうな宝篋印塔が一般のお墓と並んでいる。石柱の碑文を読んでみよう。
塩冶家 元祖 塩冶頼泰 法名 覚道 推定正安二年(一三〇〇)塩冶の館にて歿
二代 塩冶貞清 従三位下 法名 了道 正中三年(一三二六)三月二十八日塩冶の館にて歿
その外一門の霊位
塩冶判官の祖父と父の墓である。これに対して高貞の墓は小さな五輪塔であり、そのことが塩冶判官の悲劇的な死を物語っているように感じる。これは判官の供養塔だろう。では松江市宍道町の首塚とは何か。実際は播磨の地で亡くなった判官の遺臣が、首だけをやっとのことで出雲の地まで持ち帰ったのではないか。
鎌倉時代から出雲守護として栄えた塩冶氏は南北朝期にいったん衰退するが、江戸中期になって文学方面で旗揚げに成功し、古典芸能ファンでその名を知らぬ人はいないくらい有名になったのである。