イスラム教徒と仏教徒が共存するスリランカでは、コロナで亡くなったイスラム教徒の火葬をめぐって論争となっている。というのも、イスラム教徒は土葬を原則としているのだが、スリランカ政府は環境衛生の観点から宗派を問わず火葬することを義務付けたのだ。火葬を当たり前とする仏教徒が多数を占めているため、イスラム教徒は社会的疎外だと反発しているのだ。
日本の火葬は歴史が古く、文武天皇四年(700)に道昭という僧侶が最初であり、大宝三年(703)には持統天皇が荼毘に付された。その頃から各地に広まっていったらしい。本日は地方に見られる最初期の火葬墓を訪ねたのでレポートしよう。
鳥取市国府町宮下に国指定史跡「伊福吉部徳足比売(いふきべとこたりひめ)墓跡」がある。穴に納められていた「銅製伊福吉部徳足(いほきべのとこたり)骨蔵器」も国の重要文化財も指定されている。放射状に文字が刻まれ美しくも史料価値の高い骨蔵器は現在、東京国立博物館が所蔵しているが、以前には三井財閥の益田孝が所蔵していたらしい。
無量光寺前に史跡の説明板がある。「ここから現地まで徒歩約10分」とのことだ。まずは基礎知識をインプットしておこう。
伊福吉部徳足比売墓跡
伊福吉部徳足比売墓跡は岩常(いわつね)山から国府平野に延びる標高約100mの尾根上に立地し、安永3年(1774)に発見された。
上面を平らに削った長さ1.4m、幅0.9mほどの凝灰岩製台石を台座とし、その上にほぼ同じ大きさの石(奥側のたてられた石)が乗っていた。
その上石を持ち上げたところ、内側中央に直径30cm弱の穴が開けられ、その中に骨蔵器が納まっていたという。
骨蔵器は青銅製で、その蓋の裏に因幡国法美郡伊福吉部徳足比売が文武天皇に仕え、慶雲4年(707)に従七位下を賜ったこと、和銅元年(708)7月1日 に亡くなり、2年後の同3年10月に火葬してここに葬られたことが刻まれている。また、この銘文から、徳足比売は当時法美郡を治めていた伊福吉部氏の娘で、采女として天皇に仕えるため都に送られたことを知ることができる。
日本における火葬は、文武4年(700)に僧の道昭が火葬されたのが最初の例とされる。本例はそれから間もなくのことで、当時の葬制の様子を具体的に知るものとして学術的にも貴重である。 そのため、骨蔵器自体も国指定重要文化財となっており、現在は東京国立博物館に収蔵されている。
なお、骨蔵器の複製品は、因幡万葉歴史館の常設展示で見学できる。
平成24年12月 鳥取県教育委員会
寺の左手から山に入り、息を切らしながら登ると、覆屋に保護された墓跡にたどり着く。安永三年(1774)に発見されたという。あの金印発見は10年後の天明四年(1784)というから、今なら考古学ブームがわき起こったことだろう。墓前にも説明板があるので、こちらも読んでみよう。
伊福吉部徳足比売の墓跡
無量光寺の裏山に伊福吉部徳足比売の墓跡があり、国の史跡に指定されている。今から二百年ほど昔、安永三年(一七七四)に土地の者が平たい花崗岩の石蓋を起こしたところ、青銅製の骨蔵器が納められていた。骨蔵器は鉢形をした容器に蓋をのせたもので、鉢の高さ一三、ニセンチメートル、蓋の直径二五、八センチメートルであり、蓋の上面に埋葬当時のことが十六行、一〇八文字刻まれている。
その内容は、因幡国法美(ほうみ)郡の豪族伊福吉部氏の娘徳足比売が、文武天皇の御代に倭の宮廷に任え、慶雲四年(七〇七)に従七位下を賜ったが、和銅元年(七〇八)七月に亡くなり、和銅三年一〇月に火葬にされ、郷里の因幡国に送られて骨蔵器に入れられて葬られた。後の人がこの墓を壊すことがないようにと書かれている。
このように葬られた人の名がわかる古代の骨蔵器が発見された例は、全国で一〇数例しかなく、極めて貴重なもので、国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。レプリカが因幡万葉歴史館に展示してある。
蓋に刻まれた銘文の原文も記録しておこう。
因幡国法美郡/伊福吉部徳足/比売臣/藤原大宮御宇大行/天皇御世慶雲四年/歳次丁未春二月二/十五日従七位下被賜/仕奉矣/和銅元年歳次戌申/秋七月一日卒也/三年庚戌冬十月/火葬即殯此処故/末代君等不応崩/壊/上件如前故謹録錍/和銅三年十一月十三日己未
現代なら亡くなって数日後には火葬となるが、比売の場合は和銅元年七月に亡くなって、同三年十月に火葬されている。2年以上のタイムラグが「当時の葬制の様子を具体的に知る」手がかりとなるのだろう。「後の人がこの墓を壊すことがないように」との書き置きがありながら、掘り返されて肝心の骨蔵器はよそへ移されてしまった。国の重文に指定されていることが、せめてもの救いだろうか。
「伊福吉部」を史跡では「いふきべ」と読み、骨蔵器では「いほきべ」と読ませている。伊福部(いふくべ)氏は因幡一宮宇倍神社の社家であった古代からの名族である。ゴジラのテーマで知られる伊福部昭氏はその子孫である。五百籏頭眞(いおきべまこと)氏は高名な政治学者で、防衛問題の権威だ。ご先祖は姫路藩士ということだが、何がしかの関係があるのかもしれない。
「家に帰るまでが遠足です」という先生の言葉を「土に還るまでが人生です」と言い換えるギャグがある。だが現実には、骨になるまでが人生だった。しかし、神道の本来の葬制は土葬であり、昭和天皇も土にお還りになった。日本で当たり前に思われている火葬は、イスラム教徒にとって当たり前じゃないどころかタブーである。イスラム教信者が増えている昨今、葬制について立ち止まって考える時が来ているのだろう。