現代都市の起源は城下町にある。今から数十日後に死ぬ明智光秀も福知山城を築いて城下町福知山を開いた。中国地方では岡山、広島、萩、松江の城下町も安土桃山から江戸初期にかけて建設されている。今日の舞台である鳥取もそうだ。いずれの城下町にも大きな川がある。都市建設の背景としては、水運の利便性と同時に、治水技術の発達が考えられるだろう。
本日はさらに数百年の時間をさかのぼり、国府や国分寺という古代の中枢機能の立地条件に着目しよう。
鳥取市国府町中郷(ちゅうごう)に国指定史跡の「因幡国庁跡」がある。この清々しい広大な風景を古代の役人も眺めていたのだろうか。
国府の立地は大きく台地タイプと平地タイプに分けられる。以前にレポートした美作国府は台地タイプだ。好立地のため現在は住宅が密集して、かつての姿は想像しがたい。これに対して因幡国府は平地タイプである。
以前に「国分寺は「好処」に建てよ」という記事で、国分寺が被災しにくい場所に建てられたのでは、と指摘したことがある。国府もまた同じだろう。ここ因幡国庁跡も鳥取市のハザードマップによれば比較的安全な場所だと確認できる。
国府や国分寺を訪ねてよく思うのが、景観が懐かしい、どこかに似ている、ということだ。おそらく、ずっと昔に訪ねた飛鳥地方の穏やかさと重ね合わせているのだろう。古代大和の藤原京には「大和三山」という美しい景観があるが、面白いことに、因幡国庁跡周辺にも「因幡三山」がある。すなわち面影山、甑山、今木山である。
国庁跡方面から見た「面影山」である。畝傍山のような優しく美しい姿をしている。「面影」という名称にも、どこか物語を感じる。好環境に立地する因幡国庁とは、どのような施設だったのだろうか。説明板を読んでみよう。
因幡国庁跡は、奈良時代から鎌倉時代にかけて因幡国を治めていた役所の跡である。歌人として有名な大伴家持は国司として因幡国に赴任しており、天平宝字三年(七五九年)正月に国庁で詠んだ歌「新しき年の始めの初春のけふ降る雪のいやしけ吉事(よごと)」が万葉集の巻尾に収められている。
国庁跡は、昭和四七年から始まった発掘調査において確認された。この時の調査により、建物跡や柵列、井戸跡、石敷など国庁のものと考えられる遺構が確認された。
国司が政務や儀式を行った正殿跡とみられる建物の規模は、桁行五間、梁間二間(一二×四・八m)、南北両面に庇(ひさし)が付けられており、調査によって確認された建物群の中で中心をなすものと考えられる。柱には、径三〇cm以上の檜が用いられていた。また、正殿跡の北側には、後殿と考えられる建物跡が確認されている。後殿の規模は、桁行五間、梁間二間(一一・三×五・四m)で、内部を三部屋に仕切る柱痕が確認されている。柱材には、水上を運搬するために材を筏に組んだ際に紐を通した「えづり」穴があけられているものがあり、紐がこすれた跡もみられる。これらの建物は、出土した遺物などから平安時代初め頃のものと考えられる。
正殿跡の南側約八〇mの位置には、南門跡が確認されている。門の規模は、桁行七間、梁間二間(一八・九×七・八m)である。門の南側前面には、河原石を敷き詰めた縁石があり、北側と東西両側には雨落溝が確認されている。門の建築時期は鎌倉時代と考えられており、正殿、後殿とは異なっている。
出土遺物には、「仁和二年(註:八八六)假文」と墨書で記された題簽(だいせん)(書物や文書につける見出しのようなもの)や、木簡、石帯(役人の儀式用の服の腰帯飾り)、硯、中国から持ち込まれた青磁の器などがある。
なお、因幡万葉歴史館では、当時の人々が身に付けていた衣装や国庁の模型が展示されており、往時の様子を偲ぶことができる。
平成二二年一二月 鳥取県教育委員会
大伴家持が気になるところだが、この万葉歌については別の機会に書くこととする。どのような建物があったのか。想像を掻き立てる国庁跡は、史跡公園として美しく整備されており、最初の写真は「南門跡」である。説明板の内容も記録しておこう。
南門跡
発掘調査で確認された南門の規模は、東西二十三メートル(柱間二・七メートル等間)南北十二メートル(柱間三・九メートル等間)で、北側には、明瞭な雨落ち溝や縁石(ふちいし)が残っていました。
南門は、中世の遺物を含む土層から掘り込まれており、正殿、後殿よりは一時期新しい鎌倉時代のものと考えられ、国庁跡の南限を示しています。
柱跡は、御影石の円柱で表現し、建物の規模は盛土で表現しています。
南門跡の写真の方向に国分寺跡があるので訪ねてみよう。
鳥取市国府町国分寺の因幡国分寺境内に「因幡国分寺旧址」と刻まれた古い石碑、そして「国分寺の礎石」と書かれた標柱がある。この礎石は市指定の保護文化財である。
現代の因幡国分寺の黄檗宗は藩主池田氏の保護により、このあたりでは盛んな宗派だ。古代の礎石が庭石のように配置され、禅寺らしい気品が感じられる。礎石はどうやら元の場所から移動されているようだ。説明板を読んでみよう。
因幡国分寺跡の礎石
天平十三年(七四一)に聖武天皇が鎮護国家を祈念して、全国に国分寺、国分尼寺を建立された。因幡国分寺は、今の国分寺集落がその寺跡である。集落の南方の水田からみつかった塔の礎石は、現在、国分禅寺境内に置かれている。
発掘調査で門跡・塔跡がみつかっているが、寺域は二丁四方(約二百メートル四方)と考えられており、今の国分寺集落がほとんど寺の中に入ってしまっている。また、細男(さおと)神社境内辺りが金堂跡と考えられている。
古代の国分寺はかなり広かったようだ。ここから歩いて国庁跡まで戻ったのだが、けっこうな距離がある。この二つの中枢施設の間を、古代山陰道が東西に通過していたらしい。広大な空間を贅沢に使用していることが分かる。
国庁跡から東にしばらく歩くと「庁(ちょう)」という分かりやすい地名がある。
鳥取市国府町庁に「因幡国庁旧址」と刻まれた古い石碑がある。
石碑が立ち並んでいるが、この中に別途レポートする家持の万葉歌碑がある。中郷にある国庁跡が明らかになる前には複数の推定地があったというから、「庁」地内のこの場所も国庁跡として有力視されていたのだろう。
飛鳥地方は「日本人の心のふるさと」(古都飛鳥保存財団)だと言われるが、因幡三山に囲まれた因幡国府、国分寺の跡地もまた原風景であるような気がする。初めてなのに懐かしい。そう感じるのは私だけではあるまい。訪れた夏は青々とした景色だったが、今や一帯を積雪が白く覆っていることだろう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。