大仏をつくった聖武天皇がエラいことは小学生でも知っているが、その偉大さは大仏の圧倒的な迫力にあるのではなく、国家統一を精神的な側面から推進したことである。
具体的には全国に国分寺・国分尼寺を建立し、信仰の拠り所を提供するのみならず、秀麗な建造物を誇示することによって、人心の収攬を画策したのであった。
赤磐市馬屋に「備前国分寺跡」がある。国指定の史跡である。広大な範囲で発掘調査が進み、国分寺の全貌が明らかになっている。写真は塔跡で、おそらく七重塔が建っていたであろう。
塔心礎の上に「石造七重層塔」があり、市の文化財(建造物)に指定されている。鎌倉時代後期の作と考えられている。本物の七重塔は、その頃すでに失われていたのだろう。
赤磐市馬屋と穂崎の境界あたりに「備前国分尼寺跡」がある。
平成15年作成の説明板以外に国分尼寺を知る手掛かりがない。一部を抜粋して読んでみよう。
寺域は備前国分寺跡と主軸を同じくする一町半(一三五メートル)四方のものを想定しています。寺域の東側半分は現在は仁王堂池になっており、西側半分は農地として利用されています。発掘調査をしていないため、詳しいことはわかっていません。
「仁王堂池」が寺の存在を語るかのようだが、見た目には、壮大な寺院があったことなど想像すらできない。
ただ、国分寺跡も国分尼寺跡もともに、赤磐市作成のハザードマップで浸水想定区域に含まれていないことは、注目に値しよう。災害の危険性の低い場所が選ばれているのだ。
天平十三年(741)に出された「国分寺建立の詔」において、聖武天皇は次のように述べている。『続日本紀』巻第十四 同年三月二十四日条より(読下し文は『山陽町史』参照)
冀(こいねが)う所は聖法(しょうぼう)の盛なること、天地と与(とも)に永く流(つた)え、擁護の恩幽明に被りて恒に満むことを。其れ造塔の寺は兼ねて国の華たり。必ず好処を択んで実に長久なるべし。人に近ければ則ち薫臭の及ぶ所を欲せず、人に遠ければ則ち衆を労して帰集することを欲せず、国司等各宜しく務めて厳飾に存し、兼ねて潔清を尽すべし。近くは諸天を感ぜしめて、庶幾(こいねがわ)くば臨護せしめんことを。遐邇(かじ)に布告して朕が意を知らしめよ。
(私が国分寺建立を命じるのは)仏法がさかんになり、天地とともに永遠に伝えられ、御仏のご加護が現世も来世も常に満ちるよう願うからである。そもそも塔のある寺は、国を代表する美しい建造物である。かならず最適な場所を選んで、長く存続できるようにせよ。人家に近すぎると悪臭が及んでくるだろうし、人家から遠すぎると参拝に苦労するだろう。国司らは寺を荘厳かつ清浄に保つよう努めよ。仏法を守護する諸神を身近に感じ、人々が寺を護持していくよう心から願うものである。このことを布告して私の考えを全国に知らせよ。
国分寺・国分尼寺は「好処」を選んで建てるよう命じている。人家との距離を理由にしているが、実際は被災しにくい場所が選ばれたに違いない。すぐ近くには巨大な「両宮山古墳」、古代山陽道「高月駅跡」がある。この地が、吉備の中枢の一つだったことは間違いなかろう。
土木技術の発達した現代は、古代には住みにくかった海岸や川辺、急傾斜地にも、人が集住している。古代遺跡の分布図と現代のハザードマップとを重ねてみると、何か気付くことがありはしないだろうか。
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