安徳天皇の御陵墓については、これまで「因幡姫路編」「因幡岡益編」「伯耆中津編」の三本をお届けしている。すべて鳥取県内というのも不思議だが、本日は四か所めの紹介である。大人の都合で命を落とすことになった子どもは数えきれないくらいいるが、安徳天皇はもっとも知られている例だろう。その悲劇を伝える場所を探して、つづら折りの山道に軽自動車を乗り入れた。
鳥取市国府町荒舟に「崩御ヶ平(ほうぎょがなる)」がある。分かりやすい名称である。
県営林道福地荒舟線がなければとてもたどり着くことのできない山中である。本当に安徳天皇は来られたのだろうか。いやだからこそ、天皇御一行にとって安住の地となったのだろうか。写真奥に写る石碑には、次のように刻まれている。
ここ崩御ヶ平は古くより安徳天皇の崩御の地と伝承されています。
安徳天皇は、第八一代の天皇で二歳で即位 し、七歳の時源平の戦いで山口県壇の浦で平家一門とともに入水し、お亡くなりになったと伝えられています。しかし、源氏の手からのがれ日本海を舟で北上し、鳥取の賀露にたどりつかれました。丁度、岡益の宗源和尚が托鉢に来ておられ、事情を察した和尚は岡益のお寺にお迎えしたのですが、源氏の追手が強く、このままでは危険なので各地を転々とされ、最後はこの地に逃れ住まわれたのですが、にわかに病気になられ亡くなられたと伝承され、この地を崩御ヶ平と呼んでいます。
崩御ヶ平には、武王神社・皇居・平家城・崩御宮・寺院など多くの建物跡のほか馬の調練場まであったと江戸時代の本に記されています。
又ここから二十米下った法面には、安徳天皇の墓だと言われている五輪塔があります。
平成十三年十一月吉日 荒舟自治会
なるほど、壇ノ浦→賀露→岡益→各地を転々→崩御ヶ平とお遷りになったということだ。この各地を転々という箇所に「因幡姫路」を充てるのが通説である。ただし伯耆中津編は別系統の伝説のようなのでここでは言及しない。
上記リンクでも紹介しているが、崩御ヶ平でお亡くなりになったのは因幡姫路編も因幡岡益編も共通しているが、御遺骸をどこに葬ったかによって説が分かれるようだ。説によって異同はあるがざっくり言えば、遊びに行っていて亡くなった荒舟の地か、仮皇居の在った私都(きさいち)谷の姫路か、後見人宗源和尚のお寺がある岡益か、ということになろう。
荒舟の地は「因幡岡益編」で『鳥取県史蹟名勝案内』(鳥取県内務部、昭和9)「安徳天皇御陵墓参考地」から引用したように「文治三年八月十三日帝は二位尼等に伴はれて荒船の山奥に遊ばれしが、遂に不予となり崩御遊ばさる」とあるが、上記碑文には「最後はこの地に逃れ住まわれた」と記されている。
どちらが本当なのか、いやどちらも伝説に過ぎないのか。鳥取県内四か所いずれであっても、気の毒すぎる悲劇の幼帝に対する哀惜は同じだろう。思いの深さは壇ノ浦の阿弥陀寺陵と変わらないのである。