天皇名で「徳」の字の付く方は、懿徳・仁徳・孝徳・称徳・文徳・崇徳・安徳・順徳の8名で、後鳥羽院も初めは顕徳の諡号を贈られたらしい。懿徳天皇は実在が不確かだが、仁徳天皇は民家のかまどから煙が立ち上らないのを見て税を免除したという徳の高い天皇である。孝徳天皇はおいてけぼりを食ったし、称徳天皇はスキャンダラスで、文徳天皇は影が薄い。崇徳、安徳、順徳、そして顕徳の後鳥羽院を含めて4名の天皇は、政争によって都を追われ異郷の地で亡くなることとなった。
「徳」が付くにもかかわらず、人徳を発揮できなかった天皇が多い。とりわけ安徳天皇の悲劇は聞く者の涙を誘い、各地に伝説を残すこととなった。本ブログでも「安徳天皇御陵墓(因幡岡益編)」と「安徳天皇御陵墓(因幡姫路編)」を紹介している。鳥取県内に御陵墓がもう一つある。小鹿渓の細い道を抜けると明るく開けた里があった。
鳥取県東伯郡三朝町大字中津の普賢堂の前に「安徳陵」がある。
悲劇を象徴するかのような小さい墓だが、大切に守られていることが草の生え具合から分かる。道を挟んだ西側には少し新しいが、「平家一門之墓」がある。
一門とは誰のことを指すのだろう。一ノ谷か壇ノ浦か、源平合戦のどの段階で落ち延びたかによって武将の名前は異なるだろう。近くの細道を入ってすぐに「二位の尼墓所」がある。
二位の尼とは平清盛の妻である平時子で、「浪の下にも都の候ぞ」と安徳天皇とともに壇ノ浦で入水したと『平家物語』は語っている。ここ中津では、安徳帝や二位尼はどのように語り伝えられているのだろうか。日本の伝説47『鳥取の伝説』(角川書店、昭和55年)には、次のように記されている。
この川魚料理屋の真向かいに、「安徳陵」の立て札をたてて高さ一メートル余の自然石が石垣を築いて置かれ、それを木の柵が囲っている。石垣の前には塔身を失った五輪石がいくつか積み上げられている。中津の安徳天皇陵である。
中津には元久元年(一二〇四)三月二日の日付がある古文書が伝わっていて、それに安徳天皇のことが書かれている。筆者は清盛の子と称する平保道(やすみち)で、母の死後は叔父教盛に育てられたという。
それによると安徳天皇は、一ノ谷合戦に平家が敗れたあと都を脱出し、播磨から美作の国にはいって津山、奥津、上斎原とたどって中津に潜幸したことになっている。この先導をしたのが保道と知盛で、天皇は女装していたそうだ。中津では村人の志で不自由なく暮らし平家の再起をうかがっていたが、建久四年(一一九三)三月七日、十七歳で亡くなった。保道も天皇の死後得度して、菩提を弔ったという。
また安徳陵からすぐ西へ、「平家一門の墓」と石標が建つ墓地の隣りに二位尼の墓もある。小鹿川の右岸に盛り土された竹藪のなかの古墳がそれだが、これは安徳天皇のより立派な石に、梵字と南無阿弥陀仏の名号が彫り込まれている。
安徳帝に先立たれた後、二位尼は村人たちに柩をつくらせ塚穴にはいったという。波伯山の大徳人と同じように青竹の空気抜きを柩に差し込んでおいたが、二十一日目に香煙が絶え、柩のなかからは念仏も鉦の音も聞こえなくなっていた。村人たちは塚穴に土を盛って墓を築いたそうである。
当時は川魚料理屋があったようだが、今は観光客どころか住民も少なくなってしまったようだ。この地の伝説によれば、一ノ谷で敗れたあと安徳天皇は、播磨国から美作に入り、津山、奥津、上斎原を通過して、中津にたどり着いたという。出雲街道と倉吉往来という順当なルートだ。
お供をしたのは平保道と知盛で、保道は実在が怪しいが、知盛は壇ノ浦で「見るべきほどのものは見つ」と言い残し、碇を担いで入水したという猛将である。一ノ谷のあとに戦線から離れたというならば、壇ノ浦で壮烈な死を遂げたあの猛将は誰だったのか。そこが伝説の面白さなのだろう。
人は誰もが自分のレゾンデートル、存在理由を求めている。本当は理由などありやしない。たまたま両親がこの地にいたから、この地で暮らしている。たまたま安くて通勤に便利な物件があって、この地に越してきたのかもしれない。
それでも、なぜここに、という思いはあるだろう。山深い里ではなおさらだ。そこで必要となるのがストーリーである。我々のご先祖さまは幼い帝をお守りし、敵に見つからない場所を求めて、この地にたどり着いたのだ。伝説はこの地に生きる者の誇りであり、まさにレゾンデートルに他ならない。
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