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露口茂という渋い俳優がやっていた「太陽にほえろ」の山さんは昭和61年に殉職した。このドラマでは有能な刑事が次々と殉職したが、山さんが最後の殉職者となった。それもいいのだが、私は昭和51年の大河「風と雲と虹と」で藤原秀郷をやっていたのを思い出す。
以来、平将門は加藤剛、平貞盛は山口崇、藤原純友は緒形拳、そして藤原秀郷は露口茂のイメージが定着している。秀郷は映画やドラマにほとんど登場しないから、イメージがぶれることはないのである。
鳥取県東伯郡三朝町大字俵原(たわら)に「俵藤太の墓」がある。
俵藤太こと藤原秀郷の墓所は、佐野市新吉水町の市指定史跡「藤原秀郷墳墓」がもっとも知られている。栃木県では英雄的存在だ。また、近江富士三上山の百足退治伝説もよく知られている。しかし、西日本で活躍したとは聞いたことがない。どのような伝説があるのか、説明板を読んでみよう。
俵藤太伝説
これは俵藤太藤原秀郷公のお墓だと伝えられています。
天慶の乱で平将門追討の命を受けた秀郷公は、将門を追って此の地に来たが、戦争の無常を感じてここにとどまり、俵原部落の祖となったと言われております。
以後、約千年を経過した俵原部落では、伝説の秀郷公とその郎党の墓を厚く祀っています。
三朝町
「将門を追って」というが、将門が西日本に逃亡したのなら新事実だし、そうでないなら見当違いも甚だしい。ただ戦争の無情(無常ではなく)を感じたというのなら共感できる。俵藤太もひとりの人間。殺し合うことに何の意味があるというのか。そう悟った藤太は西へと旅立ったのかもしれない。さまざまに想像できるが、おそらく史実とは関係なく、「たわら」つながりで伝説が生じたのだろう。
石碑には「寛政」の元号が刻まれている。寛政の頃は「天明歌舞伎」の隆盛により、民衆にも歌舞伎人気が高まっていた。「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」の三大名作を手掛けた並木宗輔には、「藤原秀郷俵系図」(享保十四年初演)という作品もある。こうした背景で伝説が生じたのではないだろうか。
日本の伝説47『鳥取の伝説』(角川書店)に、面白い話がある。
俵原には百足がいないという。近江三上山の百足退治で勇名を馳せた俵藤太の威光を畏れてのことらしい。
実にいいことだ。一昨年の夏、不用意に山中を歩いて百足に咬まれ、大変な思いをしたことがある。足に残された二つの小さな傷を見て、百足退治の伝説を語り伝えた人々の気持ちが身に染みた。もっと早く俵藤太の墓にお参りしておけば、百足は退散していたに違いない。
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