「令和」という美しい元号は、万葉集研究の第一人者中西進先生が考案されたようだ。「平成」は東洋史研究の山本達郎氏、「昭和」は漢学者の吉田増蔵、「大正」は漢詩人の国府犀東が考案したとされる。昭和改元に際しては「光文事件」という世紀の大誤報が発生したが、この「光文」を考えたのも国府犀東だったという。作家の室生犀星は同郷の国府犀東を意識して、犀西→犀星を筆名としたらしい。
私は国府犀東(こくぶさいとう)をまったく知らなかったが、こうして調べてみると、時代や文学者を生み出した影響力の大きな人物だと分かった。それだけではない。本日は犀東が見いだした美しい景観、名勝を紹介することとしよう。
鳥取県東伯郡三朝町大字神倉に国指定名勝の「小鹿渓」がある。指定年月日は昭和十二年十二月八日で、この碑は昭和三十一年に農林省などが建設したものである。
変化に富むさすがの渓谷美で、遊歩道に高低差はあっても楽しく散策できる。小鹿渓「もみじのさと」展望公園の駐車場にある説明板を読んでみよう。
小鹿渓は、標高三六〇メートルの丹戸付近から標高五四〇メートルの中津ダム付近までの約二キロメートルが名勝に指定されている。この小鹿渓谷流域の地質は中生代の花崗岩で形成されており、その他にも輝緑岩(きりょくがん)・斑糲岩(はんれいがん)などの硬い岩石もみられる。名勝としての小鹿渓は、長年の小鹿川の浸食がつくりだした巨岩・奇岩からなる景観であり、交互に分布する巨岩・奇岩、また、滝や深淵がすばらしい渓谷美をつくりあげている。
特に、見どころは雌淵・雄淵付近の渓谷で、九.四メートルもの深淵である雄淵は神秘的な景観をみせてくれる。
明治四十四年には、詩人菅原蒼溟がこの景勝地小鹿渓を初めて紹介し、昭和六年、国府犀東(こくぶさいとう)が小鹿二十一景を発表したことで広く世に知られるところとなった。
四季を通じて色どりをかえる景勝美が訪れる人々を魅了する。特に雪解けの春、紅葉の秋の景勝がすばらしい。
説明板に続く遊歩道を瀬音に包まれながらゆっくりと上流へと歩く。音は近いが水辺に近付くのは容易でない。大きな岩を伝って川瀬に出たのが上の写真だ。地学的には巨礫集積帯と呼ばれる。もう少し先に進むと、中の写真の「五郎潭(ふち)」がある。瀬を流れた水が淵に注がれ、景観は一瞬にして動から静へと変化する。ただし瀬音は変わらない。大きな岩が堰になり巨礫が集積する一方で、堰を抜けた激しい水流が淵を形成したのだろう。
またしばらく歩くと県道へ出るが、そこに下の写真のような標石がある。私はここで終わりだと思って県道を歩いて帰ったが、実はここから先が雌淵・雄淵が見られる小鹿渓の本場であった。昭和31年に建てられた碑は入口を示すものだったのだろう。
昭和6年に小鹿渓の景勝を世に知らしめた国府犀東は当時、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく文化財保護行政に携わっていたという。このことが昭和12年の名勝指定につながったのかもしれない。同じ時期に福井県の三方五湖も名勝となっている。景観資源を保全する機運は全国的に高まっていた。
小鹿渓が名勝指定を受けた昭和12年12月8日、その4年後に日本は鬼畜米英と戦争を始める。この戦争で都市部では多くの文化財が失われることとなった。国府犀東が亡くなったのは戦後の昭和25年。その年に文化財保護法が制定され今に至っている。名勝は美しいがゆえに当然の如く指定されたのではない。その美しさを語る人あってこその指定であった。
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