皇位継承は今も昔も大きな問題だが、日本史上初めて天皇崩御に伴う継承ではなく、生前譲位によって即位したのが第36代孝徳天皇である。ただ、決して平和裡に行われたものではなく、クーデターの結果そうなったのであった。時に645年、大化の改新の始まりとなる乙巳の変である。
大阪府南河内郡太子町山田に「孝徳天皇(こうとくてんのう)大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)」がある。
写真で分かるように、地形の関係からか鳥居の正面ではなく横から拝むようになっている。だから実際の礼拝は右斜め上に向かって行うとよいのだ。
孝徳天皇の評価は難しい。天皇の評価を行うこと自体畏れ多いことであるが、乙巳のクーデターで中大兄皇子に担がれたというイメージが強いが、クーデターの首謀者だったとの見方もある。
軽皇子(後の孝徳天皇)は蘇我宗家との関係が薄く、このままでは皇位は廻ってこないと思われた。そこで蘇我蝦夷・入鹿に続いて皇位継承の最有力候補であった古人大兄皇子も倒したというわけだ。
また、孝徳天皇が難波に都を遷したのは、新政権の重臣となった阿倍内麻呂ゆかりの地だったからだといわれる。内麻呂の娘、小足媛(おたらしひめ)は孝徳天皇の后となり有間皇子を生んでいる。軽皇子=孝徳天皇には権力を奪取する理由があったのだ。
しかし、孝徳天皇は孤独であった。『日本書紀』巻第二十五の白雉四年(653)の条に次のような記述がある。(文部省『日本書紀精粋』昭8)
是の歳、皇太子奏請して曰く、冀くは倭の京に遷らむと欲す。天皇許したまはず。皇太子乃ち皇祖母尊、間人皇后を率奉り、并せて皇弟等を率べて、往きて倭の飛鳥河辺の行宮に居ます。時に公卿太夫百官の人等随ひて遷る。是に由りて天皇恨みて国位を捨りたまはむと欲して、宮を山碕に造らしめたまふ。乃ち歌を間人皇后に送りて曰く、カナキツケ、アガカフコマハ、ヒキデセズ、アガカフコマヲ、ヒトミツラムカ。
改新の盟友だった中大兄皇子が皇極太上天皇や孝徳天皇の正妃である間人皇后とともに飛鳥へ帰ってしまった。しかも政治の実務にあたる百僚有司までもがついていったのである。残された天皇に何ができるというのか。
「やってられるか」
皇位を捨て隠棲しようとした。皇后には歌を送りつけている。
首かせを付けて出ていかないようにしていた私の馬は、どうして他人のものになったのか。
ひとり残された天皇は翌年、失意のうちに亡くなる。
ただし、誤解のないように付け加えておくと、中大兄皇子ら飛鳥へ去った人々は、天皇が病を得たと伝え聞くや難波に戻り、天皇の最期を看取っている。政治的な疎外を受けた天皇にとって、せめてもの慰めだったことだろう。
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