地図を見る楽しみに「飛び地探し」がある。分かりやすいのは米国のアラスカ州、ロシアのカリーニングラード州、和歌山県の北山村だ。スペインがアフリカにもつ飛び地、セウタとメリリャも気になる。千葉県東金市上布田と山武市下布田は飛び地が入り組んでいる。
今ではけっこう珍重されている飛び地だが、江戸時代の我が国ではよくあることだった。本日は、三河の藩が遠く美作に飛び地領をもっていたという話をしよう。
津山市坪井下に出雲街道の宿場「坪井宿」があった。写真の道を進めば津山に行くことができる。
宿場町は各地にあるが、大内宿や妻籠宿のように見事な観光地となっているところもあれば、まったく面影のなくなっているところもある。坪井宿はところどころに古い建物があり、それらしい雰囲気がないことはない。詳しい解説が説明板にあるので読んでみよう。
坪井宿は、津山から三里半(約一四キロメートル)程の距離にある。津山を発した出雲街道は、院庄から吉井川を渡り、中須賀・領家(茶屋)・千代・坪井と久米町内を経て真庭郡落合町へ通じているが、その宿場跡として唯一町内に残っている場所が坪井宿である。
ここ坪井がいつごろから宿場としての役割を果たしていたのかは定かではないが、本格的に整備が行われたのは、森忠政が美作国主として作州に入封した慶長八年(一六〇三)以降といわれ、以後、街道の整備や交通量の増大にともない、陰陽交通の要として宿場機能の充実がはかられていったと考えられている。さらに、元禄十年(一六九七)森氏廃絶ののちは一時幕府領となったことにより、幕府の代官所が宿場内に置かれたため、以後は宿場町であるとともに、政治的な機能をも併せもつこととなった。
かつての町は、七森川から引いた水が流れる水路が中央にあり、それを境に南北に二分されていた。水路を挟む道路は南北それぞれに二間(約三・六メートル)の幅をとり、北側の道路は出雲街道で多くの旅籠や家屋が並んでおり、対して南側の道路は里道といい、一般の使用に供されていた 。このような町のかたちから当時は「麦飯町」の異名もあったという。そして、水路のほとりには柳が植えられ、現在、町中にある常夜灯も、かつては水路のたもとで灯りを点じていたとのことである。
宿場町坪井は、江戸・明治・大正・昭和とその役割を果たしたのち、宿場当時の面影を残す平静な住宅地となり、現在に至っている。
久米町教育委員会
かつて水路は道の中央にあり、町を南北に分けていた。道と水路を押麦の真ん中の黒い線に見立てて「麦飯町」と呼んだのだろう。街道の整備に努めた津山藩主森氏が元禄十年(1697)に除封となると、美作は分割され幕府領が成立し、翌十一年に地域の中心である坪井宿に代官所が置かれた。
代官所があったのは坪井公民館のあたりで、今「挙母(ころも)藩坪井陣屋跡」の標柱が立つ。
この標柱を建てたのは津山市でも旧久米町でもなく、自動車で有名な愛知県豊田市である。豊田市は市政発足当初は挙母市という名称であり、江戸時代には挙母藩2万国の城下町であった。坪井は挙母藩の飛び地だったので陣屋跡があるというわけだ。
元禄十一年(1698)に坪井に幕府の代官所が置かれたところまで説明した。その後、坪井(坪井下村、坪井上村)は同十五年(1702)に上野安中藩主となった内藤政森(まさもり)に与えられたが、孫の政苗(まさみつ)の代の寛延二年(1749)に内藤家は挙母藩に移封され、坪井も挙母藩領となったのである。
坪井宿は宿場町として賑っただけでなく、挙母藩領十二か村を支配する政治の拠点でもあった。大庄屋は坪井下村の福本家、中垪和村の氏平家だった。挙母藩領は廃藩置県により挙母県となり、ほどなく北条県となった。岡山県となったのは明治九年のことである。
坪井下村は明治二十二年の町村制の施行により大井西村となり、昭和二十七年に大井町、同三十年からは久米町、平成十七年から津山市となった。今では津山市域の西の端に位置し、すっかり周辺部というイメージだが、かつての挙母藩領の中心だったことは記憶に留めておくべきだろう。
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