君が歩けば そこに必ず 道はできる、という歌詞があったが、後醍醐天皇が歩けばそこに必ず伝説が生まれるのである。弘法大師もそうだったし菅原道真も同様だ。正確に言えば、歩いていないところにまで伝説ができるのである。道真の伝説地に本人が本当に立ち寄っていたなら、いつまでたっても大宰府にはたどり着かなかっただろう。後醍醐天皇も寄り道をしたようなのでレポートする。
津山市宮部下に「狩衣(かりぎぬ)清水之碑」がある。ここに清水があったことを示す碑だろう。
狩衣は公家の普段着、武家の礼服として着用され、現代は神主さんの仕事着となっている。「狩衣清水」というからには貴人と関係がありそうだ。夏草に埋もれそうだが、解説文を刻んだ副碑があるので読んでみよう。
作陽誌久米郡北分大井庄山川部狩衣山の項に「在宮部下村路傍有小池号狩衣清水清冽可飲旱不殺霖不湧」とある。或は又<狩衣の千貫清水>と呼ぶこの湧水は、往時後醍醐帝、隠岐への配流の途次、嘉して「値千貫」と申されし由、伝ふ。
「宮部下村にある。道ばたに小さな池があり狩衣清水と呼ぶ。清らかで飲むことができる。干ばつにも涸れず大雨でもあふれない。」『作陽誌』にそう書いてある。これは元禄年間に津山藩が作成した地誌で、清水が古くから知られていたことが分かる。ただし、狩衣の由来は記されていない。
狩衣をお召しになっていたであろう後醍醐帝は、この清水を口にして「値千貫(あたいせんがん)」、つまり「美味いのう。春宵一刻値千金、狩衣清水値千貫じゃ。わっはっは!」とのたまったのである。美味しい水が「値千貫」と評される例は、本ブログ記事「龍が守護する名城と名水」で紹介した。
狩衣伝説を求めて『久米町史』を繙いた。下巻の「伝説」で「狩衣清水(洗顔清水)」を見つけた。読んでみると…。
むかし、後醍醐天皇が隠岐へ御遷幸の砌(みぎり)、此の池の畔でお休みになり、そのあたりにあったぐいび(ぐみ)の木に狩衣をかけておいて、お顔をお洗いになったり、きれいな水を御飲みになって、すがすがしい気持になられ、旅のお疲れも配流の御身の上のこともすっかり洗い流されてお忘れになり、ついでにぐいびの木にかけておかれた狩衣までもお忘れになって立ち去られた。
ここでは「値千貫」ではなく、顔を洗って「洗顔」だという。「ああ、さっぱりした。なんか元気が出たぞ。さ、何をしておる。出立じゃ!」んで、何もかも忘れっちゃったわけね。おっちょこちょいなんだから。お付きの人はちゃんと言ってあげて。
隠岐へと向かう天皇は出雲街道を通ったはずだが、狩衣清水は街道から少々離れている。清水の評判を聞し召していた天皇が、ちょっと寄ってよ、とおねだりしたのかもしれない。
この地を天皇が通過したのは元弘二年三月というから、今なら4月だ。水ぬるみ草木も芽吹く季節に口にした値千貫の名水に、帝の御心も和らいだことだろう。
前回紹介したように院庄に入る前に顔を洗い、今回紹介しているように院庄を出てからも顔を洗う。顔を洗って出直すことが人生においていかに重要かを、天皇が御自らお伝えになっている。
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